私には推しがいます。韓国の男性アイドルグループのうちの1人です。
身体の使い方が上手で、見ていて気持ちよくなるダンス。高音が綺麗な歌声。ちょっと不思議だけど共感できる価値観。その上顔がいい。好きにならない理由がありません。
もちろんグループとして好きなのは前提ですが、特に彼からは目が離せません。これまで応援していた芸能人は色々いたのですが、そこまで特定のメンバーに傾倒するということはなく。だから、推しと呼べるのは彼が初めてかもしれません。
正直、いままで全く興味のなかったK-POP。推しができることで、韓国カルチャーに詳しくなる・K-POPに惹かれる人たちの気持ちが理解できるようになる・友達との話題が増える・マーケティングの勉強になる……というように、自分の世界をメリメリと広げてくれました。
ソフト面での変化でいうと、好きという感情が平凡な日常に刺激を与えてくれるアイドルに対する憧れが上昇志向を強めてくれるといったこともあります。
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いまや老若男女を問わず誰か/何かを応援することがポピュラーになっている時代。私も推しに日々活力をもらっているのですが、心の奥底には少しの罪悪感があります。
推しを好きになった理由はいろいろあれど、絶対に言えるのは、その顔でなければ好きになっていなかったということです。綺麗事を一切捨てて表現すると、推しが好きな理由はあくまで顔あきりなのです。かっこいいなあ・好きだなあという気持ちの中で、これはルッキズムなのではないのかという疑問が生まれています。
推しをはじめ、見目麗しいK-POPアイドルたちを見て「綺麗だな」と思うことは、外見至上主義になってはいないだろうか。心の片隅に罪の意識がのしかかります。その容姿を「羨ましいな」と思うほど、私の中に「綺麗さは価値である」と刷り込まれていくような気がするのです。
そもそも一人間をアイドルとして魔法をかけて売り出すという時点で、大衆から「羨ましさ」の視線を向けられるようなブランディングが行われているのは言うまでもありません。これがビジネスなんだということはわかっていつつもふと怖くなります。
嫌だなと思っていた思想に自身も片足を突っ込んでいるような気がしてならず、不安なのです。
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日常の中でムカついたり悲しくなったり、心が乱れる時に推しを見ると、すっーと気持ちが落ち着きます。「とはいえ推しはかっこいいし……」と良くも悪くも現実から逃避できます。
この世の嫌なことを忘れさせ偶像世界へいざなってくれるアイドルには、見目麗しさは欠かせないものなのかもしれません。普段はそうそうお目にかかれない美しさ自体が、偶像化を強めている一因であると言えます。
しかし私たちにとってアイドルは偶像でも、アイドルたちが生きる現実はリアルなものです。その見目麗しさを保つ裏側にある不自由さとプレッシャーを想像すると、素直にかっこよさを感じていいものかとややこしく考えてしまいます。
推しのことは好き。でもこの好きという感情は、私自身が苦しめられているルッキズムの片棒を担いでいることにはなっていないでしょうか?
そんな違和感を抱きつつ、推しに惹かれる気持ちもまた止められないのです。