「『人見知り』という言葉を使って許されるのはせいぜい20代前半まで」

「ガキだけに許された言葉だと思っておくほうがいい」

これは、何年か前にとあるアーティストの方が自身のブログで綴っていた文章の内容だ。

語気の強いその言葉を初めて目にしたときの私は当時社会人2年目で、「うっ」と思わず呻きそうになった。私自身、物心ついたときから人見知りの自覚をずっと持ち続けてきたからだ。

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ある程度仕事に慣れてきた頃とはいえど、持ち前の人見知りは当時職場でも発揮していた。人と接すること自体は嫌いではないものの、コミュニケーションの場ではどうしても肩に変な力が入り、脳は目まぐるしくフル回転し、必要以上に身構えてしまうことが多々あった。

前述のの言葉はとんがった矢となって確かに私のやわらかいところに突き刺さったが、同時に深く納得もした。
ブログの中では、の主張の根拠も綴られており、自身も元々人見知りだったこと、仲の良い人とだけ関わればいいとかつては考えていたこと、しかし仕事の場ではそうも言ってられないこと、特に自ら仕事を獲ったり大きくしていく必要がある場合はなおさら不特定多数とのコミュニケーションは不可欠であること、他者とのコミュニケーションを避けるのは社会においてある種の責任の放棄に繋がること…などが、まっすぐな言葉で並んでいた。

その文章に触れて以来、「私は人見知りだから…」とへっぴり腰気味に思うのはやめよう、と意識するようになった。人見知りを言い訳にしているつもりはなくても、知らず知らずのうちに自分の弱点を盾にしてしまっているのではないかという視点が新たに生まれた。

甘ったれんな。
の言葉は私の胸の内でそんな風に響き、今でも爪痕を残し続けている。

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かつては会社員だったけれど、2年前から働き方がフリーランスへと変わったことで、より一層「人見知りはガキだけに許された言葉」の裏にある想いを肌で感じる場面が増えた。
今でも私は、コミュニケーション下手だ。「もう少し上手く立ち回れたら」とひとり反省会を繰り広げることも日常茶飯事だ。でも、それはそれ。三十路が近づいてきている今、「人見知り」というワードには静かに蓋をするようにしている。

また、もっと突き詰めると、自分はどちらかといえば「二度見知り」寄りなのではないかと思うようにもなった。
人見知りというと、知らない相手と話すことが苦手な人を指す言葉に思えるものの、考えてみれば、初対面の人とのコミュニケーションそのものにはそこまで抵抗感を感じないことにあるとき気づいた。

私が苦手意識を覚えるのは、2回目以降だった。本格的に関係構築の段階に入ると、途端に立ち居振る舞いが不器用になってしまう。

人見知りにしろ二度見知りにしろ、昔から抱え続けている弱さはそう簡単には治らない。でも、弱さを抱えたままだからといって強くなれないわけでもないと思う。
彼が綴っていた「20代前半」というデッドラインをとっくに過ぎてもなお、いろんな意味で私はまだまだ未熟だ。とはいえ、途中で折れたくはないし、逃げたくもない。はたから見たらそれは、じたばたと不格好なもがき方なのかもしれない。何せ私は器用じゃないから。
けれどそれもまた私なりの、人見知りなりの闘い方だ。