私は大体のことに対して、全肯定とまではいかないが「法に触れてなければいいんじゃね?」と思っている節がある。
友人や家族と話していて、自分とは全く違う考え方に触れることもあるが、否定でも肯定でもなく「そういう考え方もあるんだなあ」とその事実を受け止めることにしている。
そんな風に生きてきたので風見鶏や八方美人だとからかわれたこともあった。
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そんな時、ある友人にしみじみと「ほんまにみーこちゃんは優しいなぁ」と言ってもらった。
え、私って優しいんだ、と戸惑った。意識的に優しくしているわけではなく、自分のやりたいようにやっていたら優しいと評されたのが意外だったのだ。
私は多分優しいわけではなくて、自分が暮らす世界は優しいものであってほしいという祈りとともに生きている。
自分が大切に思っている人たち(もちろん私も含めて)が生きることに絶望してしまわない世界であってほしい。
何か辛いことがあっても1人じゃないと思っていてほしいし、ただ一緒にいてくれる誰かがいてくれたらいいなと思っている。
相手のことを思って幸せを願っているというよりは私自身がみんなに幸せであってほしいから、これは私のエゴだ。
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確かに私が人に放つ「いいやん!」は「(どうでも)いいやん!」に近いと思う。そんなにいいと思ってなくても大げさに言う時があるのも認める。
でも、そんな無責任な言葉に背中を押されたいときもあるんじゃないだろうか。だから私は大声で「いいやん!」と言う。
人の考えをあまり否定したくないのは、自分自身のことも否定したくないからなのかもしれない。
その人にはその人なりの考えがあるはずだからそれを否定することはしたくないし、否定したくないという自分も否定したくない。
とにかく否定するのではなく、一旦そっかぁと受け止めて、そこからお互いの違いについて話し合ってわかりあっていきたいのだ。
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否定とは少しニュアンスは変わるが、人を咎めることもあまり得意ではない。
失敗したことを咎めようにも私がその失敗を未来永劫やらないとも限らない、というかやってしまう可能性がかなり高いので、「なんで失敗したんだ!」というような怒りよりも「え、この失敗は私がしてしまってたかもしれない……」という怖さの方が勝つ。
明日は我が身すぎて咎めるという発想にならないのだ。まあだからこそ、「なんで怒らずに仕方ないよねってかっこつけるんだ!」と怒られるんだと思うが……。
そんなときは「いや逆になんでみんなそんなすぐに怒れるの!?自分が絶対失敗しない自信はどうやって持てばいいか教えて!」とすがりそうになる。
明日は我が身、人の振り見て我が振り直せ、これらを頭の片隅に置いてみんなが少しずつでも優しくなれたらいいのになと思う。
風見鶏上等!八方美人とでも何とでも呼んでくれていいから!みんな幸せでいてくれ!私のために!という、全く優しくない、エゴまるだしでこれからも生かしてもらいます。