「まあ、女は『その時』に合わせて仕事変えたり働き方変えたりするもんやからなあ」

切迫早産で入院中の私は毎朝9時から、検査のためにベッド上で絶対安静になる時間が30〜40分ほどある。
何にもしない、できない時間。枕元のスマホが転職サイトからの求人情報やスカウトメールの受信を告げるためにブーブー振動している。
自分の意思に関係なく収縮してしまう子宮の張りの回数を数えながら、私は、中学生の頃、母が私にポツリと漏らした言葉を思い出していた。

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母は高卒でアパレルショップの店員として就職し、父と出会って結婚した。元来子どもが好きな人で、ハタチで産んだ長女の私を筆頭に、3人の子どもを次々と帝王切開で出産。ショップ店員の仕事は私の妊娠を機に退職し、20代前半で3人の子どもの親となった母は、その後は長らく専業主婦として家庭を守っていた。
そんな母が再び働き始めたのは30代に入ってから。最初は早朝のお弁当屋さんや宅配便の仕分けのパートとして。そして、親戚のおばあさんの介護を経験した後に、猛勉強の末、国家資格を取得し高齢者介護の仕事へ正社員として就職。50代に入った現在も「天職だ」と、バリバリ働いている。

そんな母のことを、私はある程度自分の人生を好きなように生きてきた人なんじゃないかと思っていた。
進学してもいいんだよと祖父母に言われたけど高卒で就職するのを自分で選んだと言っていたし、父とも恋愛結婚。子どもが好きで若いうちに3人も産んで、その後に天職だと思える仕事を見つけて…

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でも、ふと思い出した母の言葉。
「まあ、女は『その時』に合わせて仕事変えたり働き方変えたりするもんやからなあ」

何の話の最中だったのか、母があの時どんな顔をしていたのかは思い出せないけれど、この言葉を私に漏らした時の母の声には、何かを諦めたかのような、そんな寂しさのようなものが混じっていたことを覚えている。

育児休業給付が始まったのは、私が生まれた2年後のこと。今よりももっともっと寿退社が当たり前で、「腰掛けOL」なんて言葉が普通にあった時代。あの頃の母の夢は、もしかしたら、全然違うものだったのかもしれない…

私は今、都心のある企業で働いている。
コロナ禍では認められていたリモートワークも現在では認められず、完全出社となってからもうすぐ1年が経つ。片道1時間の通勤時間と終業時間から逆算すると、子を出産後のフルタイムでの復職は、不可能だ。

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1ヶ月前、切迫早産と診断され緊急入院してからというものの、病院のベッドの上で何度も何度も、これからの生き方について考えた。

私は母のように、自分の今の仕事を「天職だ」とはまだ言えない……。それでも、私の夢って何?目標は?どんな母親になりたいのか?どんな家庭を築きたいのか?何が一番大切なのか?一社会人として、これからやりたいことは…
そして気付いた。私は全部欲しいのだ。
その時々で、自分が大切にしたいものやコトの比重は変わるだろう。それでも、叶えたいのだ。諦めたくないのだ。
もういい大人なので、それがとても難しいということも分かっている。けれど、今はもうそんな時代じゃない。

働き方、仕事内容、子どもの成長を見届けたいという気持ち……。両立するためにどうすればいいのか?何が必要なのか?社会から求められているものは?私に足りないものは?
実際に行動に移せるのは、お腹の子どもが無事に生まれて新生活に慣れてきた頃だろうと思う。それでも、絶対安静のベッドの上でも、情報収集をしたり、これからの自分のキャリアについて考えを膨らませることは十分出来る。

私は自分の仕事を「天職だ」と言えるまで、全部を諦めない。その時々の自分の心の声を聴き、私自身と家族が納得の出来る道をきっと作り出してみせる。

令和の母親は、誰よりも欲張りなのだ。