私はインスタをやっていない。アカウントすら持っていないのだ。インスタ全盛期の今、このような20代は珍しい。やっていない理由は単純である。
私は人を嫌うことも、自分を嫌うこともしたくないからだ。
実は、Facebookで失敗した過去があるのだ。
高校2年生の頃、Facebookが人気だった。写真をアップしたり、日記のような雑文を投稿したり、友人とメッセージの送り合いをしたり。連絡を取り合っていなかった昔の友人とつながり、友人の友人と奇跡的に知り合い相互フォローするなどして、日々増えていく友人の数をニヤニヤと見つめた。
そう、友人の数。私がFacebookに狂い始めたのは、この友人の数がきっかけだった。
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高校2年生の夏に参加した国際交流プログラムで多くのアメリカ人の友人を得て、それをきっかけに私の友人の数が爆発的に増えたのである。日本に帰国した後も、ボランティア先や様々な交流会で知り合った人とは、「Facebookやっています?」から相互フォローまでが必ずセットであった。
なんと、300人ほどしかいなかった私の友人は、高校2年生が終わるころには、700人に達した。実際にその「友人」は、二度と会うことも、メッセージをやり取りすることもない人が大多数であった。
それでも、顔も思い出せないけれど増えていくその「友人」らに、投稿にいいねをしてもらう度に、そしてそのいいねの数がクラスメイトのものを上回る度に、私はその快感に味を占めた。「まよの投稿いつも人気だよね」とか「まよ友達多いよね」といった褒め言葉は、私にとって極上のご馳走であった。
そんな私が、「あれ、ちょっとやばいかも」と自覚したのは、18歳の誕生日だった。Facebookで「18歳になりました」という報告で、18歳の軽い所信表明を書くと、その投稿のいいねはぐんぐんと伸びていき、沢山のコメントがついた。
大人気となったその投稿をニヤニヤと眺めていると、ふと自分が、「いいね」の数を過剰に気にしていること、「おめでとう」とついたコメントの数を数えて、他の友人の誕生日投稿についたコメントの数と比べて一喜一憂していることに気が付いた。
「人気者に勝った!嬉しい!」であったり、「あの子には敵わないな……、もっとエモーショナルなこと書けば良かった」であったり。そして気付いた瞬間ぞっとした。
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私は誰から何を言われたかではなく、何人からコメントが来たか、を「カウント」していたのである。友人1人1人の顔を思い出して心が温かくなるそれではなく、友人をただの「1」としてカウントしていたのだ。
そして、そのFacebookのカウント上では、心の底から通じ合っているあいつも、二度と会うことのない顔もよく思い出せないあの人も、等しく「1」なのであった。
誕生日投稿へのいいねやコメントは、まるで私の18年間の通信簿のようだった。どれだけ自分が愛されてきたか、どれだけ自分が価値のある人間なのか、が誰にでも分かる形で明らかになる。通信簿でオール5を目指すように、いつのまにか私は「いいね」を求め、そして「いいね」に人生を振り回されていたのである。
そんな自分にぞっとしつつも、私はFacebookを止めることができなかった。実際に止めたのはもっと後。高校を卒業した春、浪人をすることにした私は、精神障害を発症した。激しい鬱状態に陥った私は、19歳から2年間引きこもり生活を送った。
昼過ぎに起き、ご飯を食べ、ベッドでひたすらスマホでネットサーフィン、そして明け方眠りにつくその生活は、充実していた高校生活とは雲泥の差であった。
当然Facebookに投稿する日常はない。大学で華々しい生活を送っている友人の近況を見ても、嫉妬と焦燥感に当てられるだけ。「なぜ自分ばかりがこんな目に」「あの子はいつも楽しそうでいいな」と、自分も友人も嫌いになっていく。
卑屈になるばかりであった私は、Facebookを開くことはなくなっていった。
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高校生の頃はあれだけ楽しかったSNSが、心身の状態を崩した途端、心を削っていくものとなった。その頃の私にとって、SNSとは「Sソーシャル・Nネットワーキング・Sサービス」ではなく、「Sしんどく・Nなる・Sシステム」であった。そして私は最終的に800人の友人がいたFacebookのアカウントを削除した。
鬱の私をいつも気にかけてくれたのは、Facebookに800人いた「友人」ではなく、心の底から通じ合っているリアルの「あいつ」1人たちであったと気づいたからだった。
皆さんはダンバー数という学術理論をご存じだろうか。ダンバー数とは、ロビン・ダンバーによって提唱された理論で、現代においてチームが機能する最大数は150人が限界であるという内容である。ここにおける「チームとして機能する」というのは、質の低い人間関係は含まれておらず、「空港で会っても気まずくならない関係性」であるという。賛否両論ある説だ。
しかし、浪人時代にこの学説を小論文対策で読んだときに、800人もの「友人」がいた私は、「一理あるなあ」と思ったのだ。私が「友人」とカウントしていた人は、私のその後のリアルの人生において「空港で会って気まずくなる」どころか、「空港ですれ違っても気づかない」人が大多数であったからだ。
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Facebookで手ひどい目にあった私は、自意識過剰な自分はSNSに向いていないと懲りた。Xの使用は最小限、インスタにおいてはアカウントすら持っていない。そんな私がSNSの使用にルールを設けているとするならば、「他人も自分も嫌いにならない範囲でやる」ということだろうか。
たまに「インスタなくて現代人としてやっていけるの」と友人から心配されることもあるが、大して不便は感じていない。そんな心配してくれた友人にも、読者のあなたにも、「いいねに振り回されない生活、意外と快適ですよ」と末尾に付け加えたい。