私の家庭は祖母の代から新興宗教の信者で、私は第3世ということになっている。
私自身が神を信じ、信仰活動をしているかは別として、信者の方達には何かとお世話になりながらここまで生きてきた。
そこで出来た長年の友達もいて、なんだかんだ今も信者である母に連れられてその施設に足を踏み入れる機会が、月に1,2回ある。
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信者は生活困窮者からエリート層まで、一般社会と変わらず様々な人間がいる。「先生」と呼ばれる教団の有資格者は、信者の生活上の悩みに親身になって耳を傾けていて、カウンセリングや占い的な機能を果たしているなと思う。
この教団は大金を巻き上げるシステムではないので比較的他の宗教法人よりは良心的だ。
私の母も、子育てや自分の仕事上での悩みがあると先生によく相談をしている。
先月久々にその施設へ行くと、私が小さい頃に面倒を見てもらったことのある、後期高齢者男性・Yさんが一室で寝泊まりしている様子があった。
Yさんは1人でアパートにて年金暮らしをしており、先生から許可を得て施設に泊まっているようだった。
精神的な調子が悪いから、という理由らしい。
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医療的な介入は良しとされないためここの信者が医療へつながることは、正直難しい。
ただ、社会的なつながり、連帯感というお金やモノでは得られない満足感というのは得られてそれが結果的に精神の不調の改善になるのではないか。
コロナ禍、自然災害等でもマスクをつけソーシャルディスタンスを保った上で礼拝をし、それぞれの安否確認をしあっていた。
発達障害・知的障害の子供を抱えたお母さんもおり、精神的な拠り所としても機能しているのだと思う。私自身もASDのため、母もその1人にカウントできるのだろう。
社会的弱者になればなるほど、つながり感を得るのは難しい。孤立しがちになり、地域によっては福祉のサポートに結びつきにくい場合もある。
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弱者の中には、その孤立感・欠乏感から犯罪や非行に走る者も報道でよく見る。
犯罪の抑止・正常な倫理観を身につけるという点では、現代で信仰心を持つという選択はある人々にとっては良いのかもしれない。
人というのは不思議なもので、どんなに1人になりたい、1人がラクだと思ってもいつかどこかで破綻が来る。
寂しい、人とつながっていたいという根源的な欠乏感が、泉のように沸き出てくるようになる時期がある。
それは私自身が実感している。自分の殻に閉じこもりたくなって、誰もいない場所に行きたいといつも思うけれどその反面、大人数とのつながりを求めている。
家庭というへその緒が切れて、社会という場所に参加するための、生き物としての正常な反応なのだろう。
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今の自分の状況や家族の人生を肯定するために、3代続く新興宗教を肯定したいだけなのかもしれない。いい子ちゃんを装っているのかもしれない。
でも、セーフティネット的な面があるということは、1人でも多くのこころや命を救えるということに等しいのだろう。
日本では宗教を持っていることを公共の場で言うのは良しとされない。
それに、私自身駅などで勧誘されたら正直ウザいと思うし「すみません」と言って断る。
自分自身継承するかは分からない。ただ、形而下的な価値観のみで一概に否定してはいけない大切な文化のひとつであるなと個人的に感じたし、入会した当時の祖母の思いや願いを無碍にしたくはないなと思う。
論文のようなタイトルに驚いてしまった方がいらっしゃいましたら、大変申し訳ありま㌢㍍。
論文ごっこ第二弾(第一弾は『玄人的な映える見た目を追求し、普通の人が芋呼ばわりされる狭い世界』)にお付き合い頂き、誠にありがとうございました!