私は新卒で入社した会社を3年で辞めた。今の自分があるのはこの3年の経験があるからと言い切ることができるし感謝しているが、実にあらゆる感情を味わった。
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輸送機器メーカーの開発部に配属され、ひたすら図面を描く日々が続いていた。3Dモデルを作り図面を描き、先輩に何度もチェックしてもらい、課長まで回ったら、次は調達部に回し見積りを取ってもらう。設計から調達した部品の管理まで一通り任されていた。大学時代の専攻とは全く異なり、わからないことが多すぎる中、この繰り返しで開発業務に何とかくらいついていた。
ある日いつも通り出社し、パソコンで図面を確認していた。すると、私が描いた図面の私の名前だけ全部なくなり、出戻りの社員の名前に変わり、日付も変わっていた。それらは一度外注した図面で、社外に出している。社外まで出ずとも、社内の異なる部署に出ただけも、図面変更による混乱を防ぐために、図面の訂正履歴の書き方等は細かくルール化されていた。状況が意味不明だったので、しばらく様子見していた。
しかし、プロジェクトも上の管理が行き届かないせいで難航し、どうも腑に落ちず、ある日チームリーダーに思い切って「日付や名前のみ書き換えられると社内でも外注先も混乱して管理できなくなるので、一旦社外に出した図面内容を何事もなかったかのように書き換えるのは辞めてほしい」と伝えた。そうすると、リーダーは「図面なんか誰が描こうがどうでも良いから。一向に図面出てこないから、やる気ないのかと思った」と言い放った。
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一瞬時が止まった。
今から思えば、確かに会社からすれば、プロジェクトが進めば良いのだから図面は誰が描こうが変わりない。しかし、リーダーと言えども、同じ平社員のサラリーマンの立場で言われる筋合いは毛頭ない。
また、己の体調管理もできず下から上がってくる成果物を滞らせていたのを棚に上げ、感情的になったことに対し開いた口が塞がらなかった。人は保身のためならいとも簡単に梯子を外してしまうものなのだ、出戻ってきた男に成果物を渡すために、私は雇われていたのだと感じた。
出戻ってきてから間もないうちに、休日に事故を起こし休んでいる間の日付に彼がした仕事かのように名前を書き換えられ、突き落とされたような気持ちだった。
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そこから約1年間、毎日怒り・憎しみの感情とともに過ごした。周りには自分より上の学歴の人はいないとわかっていたので、もっと学歴で評価されれば良いのにという私が全然好きではない、いやらしい考えさえ頭をよぎった。私の知り合いには、優秀で器用なそして謙虚な男性も実にたくさんいるので一括りにはしたくもなかったが、「男のくせに」と軽蔑するようにもなっていった。
課長にも事情を伝え、絶対に出戻りの彼とは共に仕事しないと話した。中間管理職も驚くものの、手の打ちようがなかった。手を打つほどの気概もなかったのだと思う。
ある日、とてつもなく優秀な男性との出会いがあり、私の目の前を覆っていた真っ黒な霧が晴れるかのようだった。その人に「現在の組織に収まるような人ではない」と言われ、その人と話が合う自分に気付いた。ここまで自分は遠い所に来てしまったのだと気付き、今いる組織に固執する必要はないのだと悟った。
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数ヶ月後、ある飲み会で「◯さんは将来管理職だね」と言われた。私は「この会社では絶対管理職にはならない」と即答した。頷く人もいれば苦笑いする人もいた。
その後、無意味な異動があり、最後はあまりに意味をなさない長時間の会議に座っているのが我慢ならず、飛び出した。一週間後に辞意を伝え最終出社日を迎えた。そして、約一ヶ月の有給休暇を経て家業に入った。
私には家業があり、父が亡くなった後は母が社長を引き継ぎ現在に至る。小さい頃から本当に可愛がられて育ったものの、親の言うことには何かと反抗してきた。
一方、社長でもある親にどこか憧れ、誇らしく思っていた所もあり、正直私には社長の座しか見えていない。聞いたら何でも教えてくれた父はもういないので、人一倍努力してきたつもりだ。大学院はダブルスクールで通い修了したし、働きながらも毎週講義に通っていた。家業に入る前から家業の仕事を手伝うことも多々あった。
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今は家業に入り、周りはほとんど自分より年上で、新しいことをしようとすると反発も小さくなく、七転び八起き状態だ。しかし将来、各々がやってみたいことに対しのびのびとチャレンジできる組織にしたい、そして、各々の正当な仕事に対して正当な評価が行われる組織にしたいと思い日々奮闘している。
もがき苦しんでいた時の自分に言いたい。無駄なものなんてひとつもない。いずれ血となり肉となる。そして、天は見ている。