大学教員をしている知人は言う。一昔前、コピペしたレポートはすぐバレた。途中つぎはぎした所で文体が急に変わるから。でも、ChatGPTは文体を自動的に統一するので見抜けない、と。大学の先生も大変だねと言うと、これからの教員は、レポートが生成AIで書かれたものかを見抜くことよりも、AIには回答できない課題を与える力が試されている、とのこと。

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先般、芥川賞を受賞した九段理江さんは「執筆に生成AIを使った」と発言して話題になったが、少し曲解されて広まってしまったようで、ご本人も当惑されておられるのではないか。読んでみれば分かるが、彼女は創作上重要な着想や文章表現をAIに任せているのでは断じてない。作品自体が近未来を舞台にしており、そこでは人がAIに質問し、AIが回答するという設定で、そのAIの回答パートの執筆に際し、ChatGPTを参照したまでのことだ。AIはまだまだ紋切型の文章しか示せず、人間の創造力にははるか及ばない。試しに、夏目漱石の読書感想文を書かせてみたが、想定内の当たり障りのない文章で、読み手の意表を突くような独創性はなかった。

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『文藝春秋』2024年3月号で、直木賞作家・小川哲さんが、「小説家vs.AI」という文章で、小説を書く上でAIを脅威に思っていないという旨のことを述べている。私は小説が好きだが、果たしてAIが書いた小説があったとして、それを読みたいと思うだろうか。小説を読むとき、私はその背後にいる著者も込みで楽しんでいる。例えば、この作者の描く失恋の場面、情感たっぷりだけど実体験を踏まえてるのかな?とか、読みながら勝手な想像をするのも醍醐味の一つだ。小川さん曰く、小説は予め設計図があるわけではなく、書いているうちに作者も予想できない動きを登場人物がするから、それをAIにプログラミングすることは難しいらしい。

ただ、AIにも良さはある。これまで「猫舌」を自動翻訳させて、「cat tongue」と出た際、本当にこれで通じるのか、単に直訳しただけなのか迷うことがあった。ChatGPTなら、それをそのまま相談すれば答えてくれる。要は、AIと上手く付き合っていくかということだ。

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ところで私は読書会に参加しており、カズオ・イシグロ『クララとお日さま』を読んだ。近未来、病弱な少女・ジョジ―の友達になるようにと開発されたAF(人工親友)のクララは、見た目は人間とほぼ変わらず、人間のちょっとした仕草や表情から相手の気持ちを察することが得意だ。クララは単なる遊び相手であるだけではなく、ジョジ―が早死した場合、彼女のスペアになることを親から期待され、ジョジ―の言動をそっくりそのままコピーできるようにプログラミングされている。

しかし、ジョジ―の病気が奇跡的に治ってしまうと、母は、クララは用済みと言わんばかりに放置する。大学生になったジョジ―は、クララには見向きもしなくなってしまう。子どもは、幼い頃はぬいぐるみやペットを手放さないが、ある時期が過ぎて急に熱が冷めると、放り出してしまう。それに似た酷薄さだ。読書会に参加していたメンバーたちは、献身的でイノセンスの塊のようなクララに肩入れして話を読んでいたため、皆、クララが愛おしく不憫すぎて、この場面で泣いてしまったらしい。

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私は、本書を読む前は、人間がAIに感情移入するなどあり得ないと高を括っていた。例えば、ペットを亡くした人や、実際には飼えない人が、LOVOTのようなペットロボットを飼うことがある。私もデパートの体験コーナーで抱かせてもらったことがあるが、いくら温かく重みがあるといっても、毛も抜けない、うんちもしない彼ら彼女らが本物のペットの代わりになることはないだろうと思っていた。しかし今は、AIと人間の境界は何なのか、揺さぶられている。