家事。日々取り組む家事。基本、私は割と手を抜いてしまう。音楽をかけて歌いながら洗濯物を干して、友人と電話で話しながら掃除をして…。片手間に適当に行ってしまうものが多いが、中でも雑さを極めているのが、料理である。 が、それと同時に、数ある家事の中で一番好きなものも料理である。
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仕事を終え帰宅し、一息ついたら夕飯作りに取りかかる。包丁もまな板も準備せずに、野菜を調理バサミで刻む。それすら面倒な時は葉物なんかは手でちぎる。深めに作られたホットプレートを鍋代わりに、野菜に冷やご飯にキノコ、顆粒出汁を投入し煮立たせ、溶き卵をかけたら最後に味噌を投入。あっという間に雑炊の出来上がりだ。
晩秋から春先まで、私の平日の夕飯はほぼこれである。疲れた日でもササッと作れる上、洗い物も極端に少なく済む。その上、栄養バランスは割とよく、材料によって色んな味付けが楽しめ、身体も温まる一品だ。
夕飯後、会社に持っていくおやつを作る。ホットケーキミックスに、レシピなどガン無視の量の砂糖や牛乳、好みでバナナや豆腐など好き勝手アレンジして、出来上がるのがパウンドケーキ。
だいたいおやつにはパウンドケーキを作ることが多い。簡単な上に、こちらも洗い物がボウル一つとゴムベラのみで済むので、平日に作るお菓子としては好条件なのだ。
ゆっくりと過ごせる休日の夜、パスタなんかを作ってみたりする。その日食べたい食材と、“おそらく、こんな感じの味になるだろう”と思われる調味料の組み合わせで、計量もせずに調理中のパスタにぶちまけて、和えたら完成。カルボナーラともペペロンチーノとも言い難い、なんちゃってイタリアンが出来ている。
そう、私の料理は、レシピを参考にしないどころか調味料や材料の計量すらもしない、『完全オリジナル目分量料理』なのである。
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私がこうなったルーツはきっと、私の祖母にある。父子家庭であった我が家での日々のご飯作りは、いつも祖母が担当してくれていた。私は祖母の手伝いをすることが好きで、よく一緒に料理を作っていた。
祖母の手元を見ていると、味付けの際に調味料を計量している様子がない。というか、我が家で計量スプーンを見た事、あったっけ…?そんなレベルである。とにかく、醤油もみりんも砂糖も塩も、やたらめったら食材に浴びせていく。
祖母のそんな調理を見ても、私は一切不安にならなかった。祖母の料理は、どこよりも誰よりも美味しいのだった。給食よりも、お泊まりさせてもらった友達の家のご飯よりも、なんなら外食で行くファミレスよりも。
本当に、出てくるもの全てが美味しくて美味しくて、毎日ご飯に感動していた。大袈裟ではなく、本当に毎日、「ああー、今日のご飯も美味しい!!」「そうかい、良かった良かった」というやり取りを祖母としていた。
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私が、調味料を量って入れると初めて知ったのは、おそらく学校での調理実習の時だ。料理って、こんなに丁寧に作るものなのか…と不思議に感じながら出来上がったハンバーグを食べてみたが、やっぱり、祖母が作ったハンバーグの方が美味しかった。
家に帰るなり、私はそのことを祖母に話した。いつも家で祖母の料理を手伝う時より、とても丁寧に一つ一つの工程を行ったにも関わらず、祖母が作ってくれたご飯の方が美味しいと思ったと。
「おばあちゃん、いつも調味料適当に入れてるよね?ハンバーグに変なスパイスとか入れないよね?教科書に書いてある通りじゃないのに、なんでおばあちゃんのご飯はあんなに美味しいの?」と尋ねると、「そりゃ、おばあちゃんは毎日、家族に美味しいご飯を食べてもらいたいと思いながら料理をしてるからね。調味料は目分量でも、愛情をいっぱい入れてるんだよ。だから美味しいご飯が出来るんだよ。」
…。んなバカな。さすがに小学校高学年の私には、一瞬、その話は非科学的過ぎるように思えた。が、そうとも言いきれないことに気付いた。おそらく、祖母にもレシピ通りに料理をしていた時代があったのだろう。
そのレシピを、私達家族の為に何度も何度も作ってくれているうちに、レシピを見ずとも作れるようになったのではないか。その上、毎日私達の為にご飯を作ってくれる中で、味付けのバランスや食材に適した組み合わせなど、そういったことが感覚的に分かるようになったのではなかろうか。
祖母が言ったことは、嘘では無いのは勿論、非科学的でもなんでもなく、正に真実であった。祖母の作るご飯には、今まで私達へ向けてくれていた愛情がたくさん入っているから美味しいのだ。
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今日も私は料理をする。祖母の傍で培った感覚を活かして、祖母のご飯に育てられた自分の味覚を信じて。
「ああ、今日のご飯も美味しく出来た!! 私天才!!」等と一人ではしゃぎながら。祖母からもらった愛情を、心の奥で噛みしめながら。やっぱり私は、今までめいっぱいもらってきた祖母の愛情を改めて感じられる、料理という家事が大好きだ。