「もう、決めちゃおうか。『うちは子どもを作らない』って」

ある日、夫からそう言われた。言葉のトーンはあくまで穏やかだったものの、心の端っこのほうがきゅっと締めつけられたような気がして、少し、苦しくなった。

以前のエッセイ(「私たちが選ぶ未来に子どもはいないけど。彼とふたりでのんびり歩く」)でも書いたけれど、私は、これまで子どもを産み育てたいと思ったことが一度もない。
理由はさまざまある。でも、どれも大元を辿れば自己肯定感の低さに起因するものなのだろう。自分のDNAが受け継がれている子どもを正しく愛せる自信が持てないし、母と子の関係性について考え始めると自分と自分の母のことをどうしても連想してしまう。

一昨年亡くなった母とは、決して良好な関係とは言えなかった。険悪だった両親の仲をさらに悪化させ、別居に至らせた原因が自分にあるという自責感情も抱いているから、「子のいる家庭」を幸せな風景として想像しようとすると、視界が歪む。

もっと言えば、独身だった頃は家庭や結婚からも目を背けていた。自分には誰かと共に人生を歩む資格なんてない、と。そんな諦念を持ち前の朗らかさで丸ごと包み込み、自然と私を笑顔にさせてくれた夫には感謝しかない。それでも、子どもを持つことに対する考えは、結婚して1年9ヶ月が経つ今も変わってはいない。

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自己主張が苦手な私を慮り、「子どもは今も欲しくない?」と定期的に質問されるのは我が家では恒例のやり取りだった。頻度は2〜3ヶ月に1度くらい。何かのきっかけで私の意志が変わっても、自ら言い出そうとはしないんじゃないか。それが夫の考えだった。

とはいえ夫から何度意志確認されても、私の答えはいつも同じ。確かに結婚に対する価値観は大きく変化したけれど、それは「僕のお嫁さんになって」と息をするように毎日言い続けていたひとが隣にいたからだ。

夫はかなり結婚願望が強いひとではあったけれど、子どもに関する願望はまた別問題のようだった。「子どもは嫌いじゃないけれど、かと言って特別欲しいとも思わない」が、夫の意志だった。子どもを持つ/持たないの2択で言うと、私と夫は基本的に同じ方向を向いていた。

私に対する夫の定期質問は、単なる1問1答というわけでもない。この質問を皮切りに、子どもに対する考えを各々がより具体的に述べる。私にとっては、ちょっとした定例ミーティング(夫婦ver.)のような感覚だった。
そのなかで、夫の考えが以前から少し変化していることに私はあるとき気づいた。本人も自覚していたようで、「子どもがもしいたら、それはそれで楽しいんだろうなって思うようにはなったかもしれない」そう口にした。

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以来、この話題が出た際はこれまで以上に慎重になった。「夫が私に確かめる」というよりも、「私が夫に確かめる」という色合いのほうがどことなく強まった。
私の意志は変わらない。ただ、私の意志だけを貫くのもまた違うと思った。「身体的負担は圧倒的に女の人のほうが強いんだから、まりちゃんの気持ちを優先させたい」と夫はよく言ってくれるけれど、とはいえ子どもはふたりの間から生まれてくるものだ。

「子どもがいる生活」と「子どもがいない生活」とでは、明らかに人生の流れ方が変わってくるだろう。夫婦になっても、個と個であることには変わりはない。夫には夫の人生があり、その中に私という存在がたまたま関わっているだけに過ぎない。

私は、後悔のある人生を夫に送ってほしくなかった。「やっぱりあのとき子どもを作っておけばよかったな」と、思ってほしくはなかった。

「じゃあ、仮に僕の気持ちが180°明確に変わったとして、まりちゃんは『うん、分かった』ってなるのかな?」

「……正直、すぐには難しいと思うよ。でも、悪いイメージばかり抱いたり卑下したりする癖を矯正する努力はできるんじゃないかな。◯◯くん(夫)の気持ちは尊重したいし、◯◯くんに似た子どもだとするときっととびきりキュートなんだろうな、とは純粋に思うし。そういうポジティブな想いを自分の中で丁寧に育んでいくことは、やろうと思えばできるのかな、って。何せやったことがないから、全部想像でしかないけど」

ああでもない、こうでもない、と重ね続けた子どもに関する話し合い。
そして冒頭の一言が、つい先日夫から言われた言葉だった。

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「この先変化することもあるだろうから」と、これまでは白黒はっきりさせようとはしなかった。その時点での互いの気持ちの確かめ合いしか行わなかった。
そんななかで、気持ちの変化という可能性をあえて取り払い、「子どもがいない生活」に夫が選択を絞った理由のひとつは、彼の未来志向の強さだと思う。
子どもの有無によって、今から未来にかけての時間の使い方・お金の使い方は大きく異なってくるだろう。もし子どもを持たないのであれば、自ずと時間的余裕も金銭的余裕も生まれる。例えば「犬を多頭飼いしたいな」といった願望も叶えやすくなるだろう。
未来のあり方から逆算して考えようとしたとき、「今どうするか」の選択をある程度の時点で下しておきたいと思うのは自然なことなのかもしれない。

他にも、年齢的なデッドラインもある。
高齢出産そのものを否定するつもりはないものの、もし子を産むのであればいわゆるアラサーと呼ばれる年代がひとつのラインなのかなと思う。つまりは今を含めたあと数年の話だ。私自身、母が高齢出産だったこともあり、若くして産み育てるより身体的な負荷がかかっているであろうことを何となく肌で感じ続けてきた。

それでも私は、夫が明確に道をひとつに絞ったことに、そこはかとない不安感を覚えてしまった。選ばなかった道について彼が想いを馳せ、悔いることがこの先本当にないだろうか。でも、こればかりはどれだけ考えたところで答えなんて出っこないだろう。未来のことは、誰にもわからないのだから。

また、私に向かって直接的な言葉を投げてくることはないものの、父が孫を欲しがっているのも知っている。

外から流れ込んでくるさまざまな言葉が、声が、私の心をぐらつかせる。選択をひとつに絞る手は、今も小さく震え続けている。