母は自由な人だ。いつだって自分のやりたいことに全力投球している。家に閉じこもっている日などない。常にどこかへ出かけ、推し活と仕事に尽力している。その姿は輝いていて、いつまでも若々しい。

だけど、母よ。気がついて欲しい。

その姿は家族の協力があってこそだということを……。

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子どもの頃から、母が早起きして家事をしているところを見たことがない。最低限のことはやっていたと思う。しかし、私が大きくなるにつれて、父や私が家事をすることが増えた。

母はというと起業して、仕事に集中して家のことをあまりやらなくなっていた。家事をお願いすれば、「私は忙しい」や「私に休むなということか」と言う。

だが、それは家族としてはどうなのだろう。家のことって皆で協力してやるものじゃないのか。自分が結婚して夫と家事を協力しあった日は感動した。これが私の求めていた生活!

私は皆で協力して家のことをやっていきたいのだ。母は私にとって家族だけど、家族じゃない。私は、母の夢を叶えるためにせっせと動いている脇役みたいだから。

だが端から見るとそうではないらしい。娘の出産で里帰りした際、近所の人に「お母さんいるから楽やろ〜」なんて言われてしまうのだ。さらに「お母さん、仕事もして孫の面倒も見るなんてすごいで」とニコニコ言われてたまったもんじゃなかった。

実際のところ、里帰り中の家事は私がしていた。母は飛行機の追っかけにハマり、時刻表を見つめては飛行場まで自転車ですっ飛んでいくのだ。別に子供を預かってくれるわけでもない。ごはんを作ってくれるわけでもない。

本当なんで里帰りなんてしたんだろう。そう思わずにはいられなかった。ただ甘えたかった。母と協力して家事育児をやりたかった。子どもの頃からその気持ちを引きずっている。ずっとどこかで期待しているのだ。母と私の思い描く家族像を。

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「ああ、家族でなければ……」思わず愚痴っぽくなってしまう。

今日も嬉々として母は私に推し活の話をする。私の思いも知らずに。母と話すことは楽しい。冗談も言い合えるし、相談事もできる。だからこそ思うのだ。母とは家族ではなく、友達としての付き合いだったらよかったのでは?と。

決して母のことは嫌いではないと思う。困っていれば、力を貸してあげたいと思うし、母の喜ぶ顔が見たくて好きなものをプレゼントしたいと思う。なんだかんだ母は、私が困っていれば助けてくれようとする。孫にも優しい。どうしても嫌いになれないのだ。

だからこそ、正直言ってしんどい。友達であれば、協力的でなくても「そういう奴」で片付けて割り切った関係を持てる。嫌な面を見なくても付き合いを続けられるのではないか。しんどい時は離れて、ほとぼりが冷めたらまた仲良くすることだってできる。

けれど家族はどうだろう。何故だか距離をうまく保てない。仲良くしなければ。好きでいなければ。そんな思いでいっぱいになる。まるで呪いのようだ。

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家族という存在だから良い面も悪い面も露わになるのではないか。どうしたって許せない部分も出てくる。直して欲しいと願ってしまう。一緒に暮らしているのだから。理解してほしい。我ながら身勝手だなと思う。
不思議なことに、この感情は母にだけ抱いているもののようだ。父や夫にも許せない部分もあるのだが、割り切って生活を送れている。母のことになると途端にダメなのだ。許せない。この差は一体なんなのだろう。

思い返せば、小さな頃からこの歳になるまで母に甘えたことが数えるほどしかなかった。いつだって母は自分の気の向くままにどこかへ行ってしまう。お母さん、私を見て。その気持ちをうまく消化できないまま大人になってしまったのだ。

だから私と母の関係は、いつまで経ってもいびつなままなのだ。

今更、母とどうこうなりたいわけでもない。関係を修復するエネルギーを割けるほどの気持ちが残っているのかも、正直私にはわからない。時々湧き上がる気持ちを抑えて、今日も私は母と対面する。母とは来世で友人として付き合いたいものだ、と。