小学6年生の終わり、私は人生で初めての選択をした。中学受験のため、4年生から通っていた学習塾を辞めた。受験期がもうすぐそこに迫ったタイミングだった。
きっかけは何だったのか思い出せない。塾の先生に怒られたとか、成績が思うように伸びなかったとか、些細なことだったと思う。
いつものように部屋で授業の準備をし、玄関へ向おうとしたそのとき、体が動かなくなり、階段でうずくまってしまった。涙があふれて止まらず、絶対にこれは勉強ができる状態ではないと悟った。
今まで塾をサボったことはなかったから、母にとっては衝撃だったと思う。最初は優しく諭してきたけれど、私の明確な意思を感じた母は、私以上に泣き叫び、何度も何度も罵倒し、叩いた。どれだけあんたにお金を掛けたと思ってるんだ。辞めるならば今までの塾代を返せ。文字通り地獄の時間だった。
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初めから自分の意思で中学受験を希望する子どもは、どれくらいいるのだろう。3個上の兄は、いつの間にか小学4年生で学習塾へ通い始め、いつの間にか第一志望の中学校に合格した。そのときの母の高揚ぶりを未だに覚えている。
合格発表の日、母は日中ずっと携帯電話を離さず、あらゆる知人へ報告をしていた。「私の息子が、〇〇ボーイになったの!」。母は家庭の事情で大学進学を諦め、2人姉弟の弟だけが大卒の資格を手にしていた。だからこそ学歴へのコンプレックスが人一倍強く、子どもによってそれが払拭されたと感じたのかもしれない。
小学3年生の終わり、私も当然のように塾の体験授業へ連れて行かれた。「通いたかったらでいいからね」と私に選択肢を与えてくれたけど、なかなか入塾を決意しない私を見て、母は明らかにご機嫌ななめだった。「通ってほしい?」と聞くと、母は「うん」と答えたので、それならばと塾へ通うことに決めた。
私も兄のように、母に認められたかったのだ。あの高揚を、今度は私の手で与えてあげたかった。
小学4年生、5年生、6年生と学年が上がるごとに授業も週3、週4、週5と増えていく。通い始めは勉強のツラさより、学校の授業と比べ明らかにレベルが高い内容を学べることの嬉しさが勝っていた。「私は他のクラスメイトよりも頭が良いんだ。学校の授業なんてつまんない」なんて優越感を感じていた。
だけど、夏期講習、冬期講習、平日も21時まで続く授業を経て、だんだんと体力的にも精神的にも疲弊していった。
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一般の小学生であれば、金曜日が待ち遠しいものだが、休み前であっても学校が終わったら塾へ行かなければいけないし、土日も宿題に追われて自由な時間がない。全国的に有名な学校へ入学した兄が基準となっているから、普通の成績では褒めてもらえない。
自分では努力しているつもりだけど、受験が迫るにつれ、明らかに自分の実力が志望校のレベルに追いついていないことを感じていた。どんなに自分がしんどくても、身内が乗り越えられているんだから、これは当然耐えなければいけないものだと、誰にも相談ができなかった。
塾へ行きたくなくて用事もなく学校に居残ることもあった。そういうときは母がわざわざ学校へやって来て、友人がいるのもお構いなしにものすごい形相で叱ってきた。ここから降りられたらどんなにラクなことだろう。だけど、リタイアしたときの母の態度がはっきりと想像できたから、そんなことは言えなかった。絶対に見捨てられると思った。
自分をだましだまし、無理をして塾へ通っていたが、ついにある日、体が言うことを聞かなくなった。そのときの母の激昂っぷりは、自分が予想していた以上だった。本気で殺されるのではないかと思ったし、これからどのように生きていけばいいかと絶望した。
ただ、当時の母はそれ以上に失望していたと思う。
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その後、塾講師との話し合いを経て、私は正式に受験から解放された。母も諦めがついたのか、粛々と手続きを進めていた。
それからは、すぐに塾がない生活に慣れた。受験勉強が生活の半分を占めていたけど、辞めてみれば案外こんなものかと逆にびっくりした。学校から帰ったら折り紙をしたりお絵かきをしたりゲームをしたり、勉強のことを一切気にせず好きなように過ごした。もちろん金曜日が一番好きな曜日になった。こんなに気楽な毎日を過ごせるのなら、もっと早く辞めていればとすら思った。
27歳になった現在から当時を振り返り、あのとき自分の意思で選択をしたことの意味を大きく感じる。母に認められたくて入塾と中学受験を決意したが、その選択が自分をあんなにまで苦しめてしまった。
辞めると伝えたときの母の暴力も、暴言も、心に深く傷を残すほどたまらなく苦しいものだった。けれどそれ以上に、「母から認められない選択」を自分自身で選んだことで、「母から認められなくたって生きていけるのだ」と小学生ながらに学習できたのは、私の人生において大きな収穫だったと思う。