三人きょうだいの末っ子であるわたしが社会人になってから、母に対しては「これからは好きなことをして、ゆっくり過ごしてね」と思っていたし、何度かそのようなことを伝えたとも記憶している。でも今、わたしは母にその言葉を伝えることができない。

父がつねに単身で海外を飛び回っていた我が家では、経済面では父が大黒柱だったが、日々の食事や家事、送り迎え、学校まわりの手続きなど実際的な子育ては母が一人で担っていた。わたしの小学校入学前から、実家は出ていたが大学卒業までじつに十六年間、自分よりも子どもを優先させる生活を送っていたということへの驚きと畏敬の念におそわれたのは、もちろん社会人になってからだった。

わたしが大学に入り、実家に母一人となってからは、パートタイムで働く傍ら好きなアーティストのライブに足を運んだり、学生時代の友人と旅行に出かけたりするようになり、そのことをわたしは嬉しく思っていた。
幼い頃から父が不在できょうだいも年が離れていたせいか、わたしは「家族とは一緒にいるもの」という感覚が薄い。母も近い感覚を持っているだろうと思っていたし、子ども達がようやく手をはなれ自由を謳歌しているように見えた。

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そんな母の心の奥底に、おそらく本人も気がついていない寂しさ、やるせなさ、悔しさが、もうずいぶん前からあったのではないかと考えるようになったのはつい最近のことだ。

きっかけは病気が見つかり入院したことだった。幸い大事には至らなかったが、リハビリを経てパートの仕事は退職、お稽古ごとにも顔を出さなくなった。美味しいものが好きで旅先では一緒にカフェ巡りをしていたが、やはりいろいろな数値が気になるのだろう、病気が見つかってからは今までのように食べることも難しくなってしまった。

気分の落ち込みが原因で何もやる気が起こらない状況をわたし達きょうだいでサポートしつつ、父とも何度もやりとりをした。その会話の中でも、友人知人に相談をする中でも出てくる「長期的で根本的な解決策」は、「母がセルフケアをできるようになること」「何か没頭できるようなことを見つけること」「社会とのつながりを持つこと」だ。もちろんどれも必要なことだと、わたしも思っている。

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でも、今の母を見ると「心地よく過ごしてほしい」「好きなことをやってほしい」「友人やコミュニティとつながっていてほしい」という言葉をかけることができない。

その「心地よいと思うこと」「好きなこと」「社会とのつながり」を失わせてしまうのに、十六年というのは十分すぎる時間だったのではないか。

両親の選択だったと言ってしまえばそれまでだが、結婚についてポジティブな発言をしないわたしに「当時はそこまで考えてなかった。それが当たり前だったから」ともらしたことのある彼女に、果たして選択肢は与えられていただろうか。
母親としては心配性で教育熱心でやや過干渉な彼女が、キャリアを築いていた世界を想像すると、きっときめ細やかで真摯な対応を欠かさないプロフェッショナルになっていたに違いない、と思う。

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急遽休みを取り、母と一緒に過ごした父が「周囲とのつながり―ママ友とか―がこんなに少ないと思っていなかった」と言っていたのが忘れられない。母親としての役割に区切りがついた母と、周囲とのつながりとして最初に出てくるのが「ママ友」か......。
このような「母親」へのレッテル、ステレオタイプは今でも空気のように存在していると思う。そこには悪意が全く見当たらないというのが、わたしはとても怖い。

誰もが価値観を「アップデート」していかねばならないという時代だが、三十歳以上のジェネレーションギャップがある親世代に、わたし達の価値観を当てはめることは正義ではない。今までのすべてが今の自分につながっているというのに、がその過去を否定できるだろう。でも、「でも」と思う。わたし達が知っている今までの母ではなく、今の母を見て、話して、接したいのだ。

わたしは今からでも間に合うと信じている。母が、母親としてではなく一人の人間として幸せになることを信じている。