私の母は、感情的で人との関係を築くのが下手な人だ。
言わなくていいことを言うし、良かれと思って話す言葉も、見事にポイントがずれていて、相手の気持ちを逆なでする。
うまく言葉にできないときは、大声をあげることも、暴力的になることもあった。
だからきっと、これまでたくさんの人に誤解されてきただろうし、身勝手で感情的な行動で、人との関係を壊してきたのだと思う。
だが、自分の感情に素直で一生懸命で、どこか憎めない人だ。

娘である私も、小さいころから、そんな母に振り回されてきた。

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私が小学5年生ごろ、友達とのお出かけを控えた前日、母と些細な事でケンカをした。
お出かけのために買ったお気に入りのブラウスを部屋の壁にかけていたところ、母はそのブラウスを、私の目の前で、ハサミで切り刻んだ。
そんなことは日常茶飯事だった。
買い物に行くと、機嫌のよいときは何でも買ってくれる母。でも、何かの拍子で機嫌が悪くなると、帰りの車の中で、大声で私を叱責し、手を挙げるのがお決まりだった。つねられたり、叩かれたり、母の激しい感情の波を真正面から受け止めるのが、私の役割だった。

きっと、母は、苦しかったんだろう。
どうしようもない悲しみや寂しさを、うまく言葉にできないから、手が出てしまう。激しい感情に身を任せ、独りよがりな行動で誰かを傷つけてしまう。
暴力を正当化するわけではないが、当時の母の生きづらさや苦しさを、少し理解できるほどには大人になったつもりだ。

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母は短大を卒業後、メーカーで企画の仕事をしていた。当時母が手がけたという商品は、今でも形や名称を変え販売され続けている。
当時は男女雇用機会均等法もない時代。母は仕事が好きで続けたかったそうだが、女性は結婚・妊娠したら退職するのが暗黙の了解だったという。母も例にもれず、30歳でお見合い結婚し、31歳で私を身ごもり退職した。いや、退職せざるを得なかった。

母が結婚した相手(つまり私の父)は、東京の国立大学を卒業後、誰もが知る総合商社に就職した。その後、父(私の祖父)が急逝したため、実家の建設会社を継いだ。
母と父の間でも、いろいろなことがあったのだと思う。母は義母(私の祖母)との関係が良くなく、父とのケンカも絶えなかった。

束の間、母と父が笑顔でいるその奇跡のような瞬間が、幼い私にとってはとても幸せなご褒美のような時間だった。
もちろん、ご褒美であるが故、その時間は長くは続かない。お互いを傷つけ、罵りあう両親を見るのは、苦しかった。私自身が、そんな両親の姿を見て「傷ついていた」と知ったのは、もっとずっと先、大人になってからだった。

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母が変わり始めたのは、父と離婚してからだ。

私が高校生のとき、両親はついに離婚を選択した。その後は、父からの援助もありつつも、母は必死に働いていて、私と弟を育ててくれた。その姿は、身勝手に、感情任せに私に暴力をふるっていた母とは別人のようだった。
いつだって、子どもを最優先し、自分の意志や感情は後回し。いつも無理した笑顔の奥に、私は、母が押し殺した苦しみ、悲しみ、寂しさを見ていた。

私は、母とは真逆の生き方を選択した。
いつしか、母を軽蔑するようになり、とにかく、母のようになりたくなくて、必死で勉強もしたし、キャリアも築いた。母の人生を否定するかのように、母とは違う選択を積み重ねてきた。

母を「毒親」だと片付けるのは簡単だ。暴力をふるった母も、子どものために必死に働いた母も、同じ母だ。
今でこそ、母も未熟だったこと、母の“愛”の形だったとわかるくらいには大人になったけど、かつての暴力も、「子どものため」と自分を犠牲にする姿も、私にとっては重圧でしかなかった。

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一番近くにいたのに、心は一番遠かった人。
本当は、誰よりも幸せでいてほしくて、笑っていてほしかった人。
お互い、人生経験を積み、今では1人の「人間」として新たな関係を築いている。
先日、母と出かけた帰り道。帰りの電車の中で、母は独り言のように「幸せだなぁ」とつぶやいた。
そんな母の横顔は、苦しみや悲しみ、寂しさの影はなくて、澄みきっていて美しかった。

あぁ、私はこの人から生まれたんだ。
この人から生まれてきたことをすごく幸せだと感じた。
そして、その瞬間、私は、私自身がもっと幸せになることを許すことができたのだ。