私は歩くのも、言葉を話すようになるのも、周りの子に比べると早かったらしい。
今まではそれを母や祖母などから聞くことでしか、知る由がなかった。自分の記憶にないことを言われても他人事でしかなく、2人が懐かしそうに、楽しそうに話すのを聞いてもどこか現実味のないふわふわした話でしかなかった。
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それが、ある日、ふとしたことから母の育児日記を見つけた。
「なつめのパジャマを置いていたら楽しそうに雑巾がけの真似をし始めました」
「出窓に腰かけて受話器をとって楽しそうにしているのはいいんだけど…笑」
「今日は大きい地震がありました。怖がっているかと見てみると全然臆してなくてニコニコ走り回ってました」
普段、母親というよりは友達という感覚に近い母の、優しく愛に溢れた言葉だった。
その中にひと際私の心に残った言葉がある。
「なつめに手をひかれるまま歩いていったら大通りまで出ました。こんなに歩けるようになったなんて。嬉しい悲鳴です。これからどんどん成長して自分で歩いていくようになるんだろうなあ」
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幼稚園に入る前は母の手を握っているのが当たり前で、どこかへ行くときはいつも早くと母の手を引っ張ってヨタヨタと歩いた。
小学生になって、街で友達を見かけると、さっと繋いでいた手を離してすまし顔をした。
中学生では、不整脈がよくなってきたからと、お医者さんに体育のマラソンを許可された。
マラソンは嫌いだったけれど、私はマラソンが嫌いだということが分かること、マラソンの授業が憂鬱なことがほんの少しくすぐったく、嬉しい気がした。
高校生では学園祭のリーダーや留学の準備、受験などで忙しく、ことあるごとにせわしなく走っていた。母と出かける頻度は低くなっていった。
大学生の今、母は週に一度声を聞き、数ヶ月に一度会える人になった。
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私は一人でいることが当たり前になった。19歳になった私はもう、母の手を取り歩くことなど頭にない。
それでも私は自分の足で、自分の力で、歩けているだろうか。
一人の時間が長くなるほどに、私がいかに自分も気づかぬ間に母の背中を見て育ったのか、母に支えられてきたのかを思い知る。
未だに確定申告も、市役所からの封筒も、自分で自信を持って対処することはできない。分からないことがある度、母に連絡する。たまに母と出かけたときは無くさないようにと切符は母に預ける。会社から賞状と賞金をもらったら、その半額分くらいのお菓子をオフィスに持っていく。
母がそうしていたから。自分の結果は自分だけのものではない。周りの人に支えられてできたことだからと母は、理由を聞く私に教えるでもなくただ説明した。
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私達人間の子どもは他の動物よりはるかに過保護に十何年も育てられている。他の動物に比べると遥かに弱い。でも弱いなりにも兄弟のいない私は特に、これからもっと自立して、一人でも生きていけるようにならなければならない。
でも、私は孤独ではない。たとえ私が誰と人生をともにしようと、また一人で暮らそうとも、私は常に母という大きな影と共に歩いていくのだろうから。
19年ほど前の母が書いた字をなぞり、今まででもらった数え切れないほどの愛情と教えを振り返りながら、私は日記を閉じた。
さあ、まずは自立の第一歩として、目の前の仕事を片付けますか。