母とは仲が良い。大人になってからは、親というよりも友達に近い感覚だ。とはいえ、何でも話せる間柄ではない。この絶妙な距離感が、わたしと母との距離。
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子どものころから、母を“お母さん”と呼ぶのが苦手だった。どうしても恥ずかしい思いが勝ち、大きな声では呼べなかった。母という意味を含むいろんな呼び方で母に声をかけてみた、そんな時期だ。いちばんしっくり来たのは、マミーという呼び方。テレビで外国の子どもが母親を呼ぶときに使っていた言葉だった。
お母さんでもなくママでもない。お母さんともママとも呼ぶには抵抗があったわたし。ちょうどいい呼び方だと思った。中間地点とでもいうのだろうか。ママほど幼く感じられず、お母さんとかしこまっているわけでもない。
ニックネームのように気軽に呼べる、マミーという呼び方がしっくりきた。母も、自分のことを呼ばれているのだとわかりやすかったのだろう。何事もないように、いつもと変わらない返事をして、いつも通り接していた。
母親の呼び方は、成長とともに変わることが多い。ママからお母さんへ変わる瞬間がどこかにある。しかし、マミーと呼び始めてから今日まで、母のことをお母さんとちゃんと呼んだ回数はない。わたしが記憶しているなかでは、面と向かってお母さんと呼んだ記憶がない。長く呼び続けられる呼び方だったらしい。
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この呼び方のお陰で、少し話しにくい内容でもハードルが低くなった。かしこまった話でも、思い切って聞いた話でも、スッと入り込めた気がした。親子間も、ギスギスとすることなく、一緒に買物に行くことも、カフェに行くこともあった。他愛もない話で一生笑っていられる時間を過ごすこともあった。
そんなときもわたしは必ず母のことをマミーと呼んだ。子どもの頃からマミーという呼び方が定着していたので、知らぬ間に家族全員が母のことをマミーと呼ぶようになっていた。
母親という確かな関係性は、ときに親子に溝を生むことがある。反抗期、思春期など子どもが大人になるライフステージに差し掛かると、途端に高い壁として立ちはだかるのだ。その壁を壊せなかったとき、母とは確執が生まれ、二度と壊せない壁として子どもの心に残る。
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マミーという呼び方は、その壁を作らないようにする効果もあったのだろう。距離感は子どものときよりも近くなり、お互いが一人の人として同じ時間を共有するようになった。互いをよく知っている人同士なので、同じ時間を過ごしていても心地よい。離れて暮らしても、久しぶりに会いたいと思うこともある。またどこかへ出かけたい、話したい、などと思うこともあるのだ。
もし、わたしがいま、母のことをお母さんと呼んでいたら、関係性は少しでも変わっていただろうか。もう少し壁がある状態で親子関係があったのかもしれない。今よりは少し硬めの親子だったのだろう。ここまでフランクな親子関係を作れている気がしないのだ。
そして、わたしが母のことをお母さんとちゃんと呼んでいる姿が想像できない。いずれにしても、母のことを少しフランクに呼ぶのは決まっていたように思う。友達のような砕けた関係性も、わたしたちらしいと思う。母とわたしにとっては、これくらいの距離感がベストなのだろう。
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考えてみれば、母もわたしのことをちゃんと名前で呼ぶことは少ない。ニックネームで呼んでいることが多い。お互いがこのような関係性を保っているのだから、成立しないわけがないだろう。
わたしと母との距離感は、親子ほどしっかりした関係性ではなく、友人のように少し砕けた関係性を保っている。同じ時間を共有し、他愛もない話でお腹が痛くなるほど笑う。離れて暮らせば、様子が見たいと顔を出す。
わたしには、これがわたしたちの親子の形だ、と胸を張って言える関係値。絶妙な心地よさを作っている距離感だ。これ以外はあり得なかった、と断言できる。わたしが認めている数少ないアイデンティティのなかの1つであり、私の大きな軸となっている要素でもある。一生大切にしていきたい。