今年11歳になる長女は、小さな時から周りの雰囲気をよく察知する。とくに、私に余裕がない時などはすぐさま顔色を読み取って、余計なことをしないようにとだまって自分の部屋に行くのだ。

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反対に、私が馬鹿をして歌ったり踊ったりしていると、とても嬉しそうに笑う。娘に気遣われているなと感じるたびに「立派な母にはなれないけれど、なるべくいつも笑っていられるようなご機嫌な母でいないと」と反省する。

笑顔の私を見て、嬉しそうな娘を見て。ふと「あ、昔の私と似ているなぁ」と思う。
幼い頃の私も、母が笑顔だととても安心した。いつの時も私は母に、「私がお母さんを幸せな気持ちにするんだ」と決めていたように思う。

思い出すのは、母と行った銭湯での場面。
母の背中には、大きなアザがある。生まれつきのもので、ところどころ皮膚が盛り上がっている部分もある。灰色、青色、少しだけ黄味がかったところも。まるで大理石のようにも見えるマーブル模様のそのアザは母の一部であり、私たち子どもにとっては自然なものだった。

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生まれた時からそこにある、大好きな、大切な母のアザ。けれど母と一緒に入ったその銭湯で、アザを見た見知らぬ女の子がこう言ったのだ。

「あのおばちゃんの背中、気持ち悪い」と。

そばにいたその子のおばあさんらしい人は「見ちゃいけない」と顔をしかめ、その子を私たちから遠ざけた。母の顔を見ると、「そうだよね、こんなの、ごめんね」とでも言うふうに、申し訳なさそうに下を向いていた。
そのあと、どうやって服を着て銭湯を出たのだろう。帰りの車のなか、母の胸でわんわんと泣いたことだけ、はっきりと覚えている。

「何が気持ち悪いんよ。お母さんどこも変なところない!気持ち悪くなんてないやんか!お母さんを、あんな目で見るな!!」

大声で泣く私に母は、きっと何か声をかけてくれていたと思う。「気にしなくていいよ」だろうか。「悲しい思いをさせてごめんね」だったかもしれない。そうして私の背中を、いつまでもさすってくれていた。

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たぶんその頃からだ。とにかく私は「母を誰より幸せにしたい」と強く思うようになった。笑顔でいてほしい、楽しそうにしてほしかった。傷つかず、苦しむこともなく、あの銭湯でのように「申し訳ない」なんて顔もせず、自分の人生を堂々と生きていてほしかった。そのために何かが私にできるなら、ぜったいに何だってやろうと思っていた。母を傷つけるものがあるなら、私が守るんだ、と。

大人になって感じるのは、幸せにすると決めた気持ちの裏にはどこか「母はかわいそうな人」というぬぐえない想いがあったことだ。銭湯で、あの女の子から向けられたような視線を、他人から受けてしまう母を見てしまったから。

アザのある母は、きっと子どもの頃から必要のない苦労をしたに違いない。
アザを隠すため、夏でも長袖を着ていた母は。
少しでもアザを薄くするよう、小さな頃から遠方の病院に通わされていた母は。
「私なんて…」が口癖の母は。

母は、母の人生をどうとらえているのだろう。「お母さん幸せ?」なんて、面と向かって聞いたこともないし、聞いたところで母の内面はきっと、母にしかわからないものだとも感じる。もちろん今も「母に笑っていてほしい」と願う気持ちはある。でも、大人になった私は私が母を「幸せにすることはできない」ことを知っている。

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今、強く感じるのは、母が「母自身の人生に納得していますように」ということ。そこに私が介入することは、たぶんできない。何もできない私が、かけがえのない母へできること。
それは祈ることだけだ。

「自分でよかった」と母が思えているように。アザがあろうがなかろうが、「私は私の人生に満足しているよ」と言えるように、と。
母への想いを見つめ直した時、きっと人の幸せは、その人自身で見つけ、作りあげるほかないのだと知る。どんな状況があったとしても。

だからこそ私自身も、娘たちに言いたいのだ。「お母さんは、いつだって幸せやねんで」と、胸を張って。私の大切な人たちにはみんな、そう思える人生を歩んでいてほしい。