数年前の、冬と春の間の話。

「ねえ、いま好きな人とかいないの?」

びくり、と身体のどこかから音が鳴った気がした。

もちろんそれは100%空耳なわけだけれど、そう思わせてくるくらいの動揺だった。

大丈夫、電話越しだから私の顔は見えていない。動揺も、伝わっていないはず。

「何、いきなり。私が彼氏と別れたばっかりなの知ってるよね?フラれました、はいじゃあ次行きましょう……ってならないでしょ。そんなすぐに」とあくまで冷静に言い返す。

「ふうん」と、自分から訊いてきたくせに興味があるのかないのかいまいち掴めない彼の声。いつものことだ。これが彼の平常運転。

「そっちはどうなの」
「僕が恋愛興味ないのだって知ってるでしょ」
「知ってる。でも結婚はしたいんだよね」
「そうだよ」
「じゃあまずは彼女作らなきゃね」
「えー、だる。めんどくさ」

これも、私たちの間でよく交わすくだりだった。

仕事を通じて知り合い、何となく親しくなって、気付いたら電話でだらだらと長話をするような関係性になっていた私たち。会話は、大抵がどうでもいい内容だった。

日々の長電話を通じて、彼が家では堅あげポテトばかり食べていることや、部屋がとっても散らかっていることや、子どもの頃の夢は「松潤になりたい」だったことなどを知った。

知らなくても特に困らないことばかりだったけれど、それでも退屈だとは思わなかった。むしろ、もっと知りたいと思った。電話を切ったときは大抵深夜から明け方で、たまらなく眠かったけれど、その猛烈な眠気は片耳に残る余韻と溶け合い、いつまでも浸かっていたくなるような心地良さを漂わせていた。

◎          ◎ 

つまり私は、彼のことをしっかり好きになってしまっていた。当時付き合っていた恋人と少しずつ噛み合わなくなっていたことも、シーソーのように気持ちをゆらゆら傾かせるひとつの要因だったのかもしれない。

恋人とは結果的に別れ、シーソーの乗り手はひとりだけになった。とはいえ、シーソーに跨る彼の元へ簡単に駆け寄っていいものなのか、とても悩んだ。

別れた恋人に対する強い未練はなかったけれど、あまりにも切り替えが早すぎやしないだろうか。薄情ではないだろうか。付き合っていた段階で目に見える行動に移していなかっただけで、心が浮気していたことを暗に認めてしまうのではないか。

そう思ったからこそ、例の彼の問いも一蹴した。「本当はあなたのことが好きなんだけどね」なんて、到底言えなかった。

「ねえ、いま好きな人とかいないの?」

しかしまた別の日、彼が私に同じ質問を投げてきた。何なんだろう、何を意図して訊いているんだろう。彼の本音が見えなかった。

何を考えているのかいまいちわからないのはいつものことだったけれど、今回ばかりはもどかしかった。

◎          ◎ 

だから、ジャブを打ってみた。

「……いるよ。好きというか、気になるというか」
「何だ、やっぱりいるんじゃん。誰?」
「……言ってもわからないと思うよ。知らない人だから」

と、小さいウソもついてみた。彼の反応を窺うために。

しかし返ってきたのは「へえ」「ふうん」と相変わらずの平坦な返事。えい、と私なりに思い切って打ったジャブは、おそらくあんまり響いていなかった。拳には、何の感触も残っていない。

けれども彼は、「それで、気になる人って誰なの」と、電話する度に同じ質問を繰り返してくる。「だから知らない人だよ。何で最近その話ばっかりなの?」とはっきり尋ねても、返ってくるのは「だって面白いから」というどうにも要領を得ない答え。

前にも後ろにも進まない状況を飛び越えてみたくなった私は、ジャブの打ち方に少しずつ変化をつけていく。

「……知らないかもしれないし、もしかしたら知ってるかもしれない」
「何だそれ。あー、職場の人ってこと?」

彼は仕事の都合上、私の職場によく出入りしていた。さすがにその場にいる全員を把握できてはいないけれど、話題に出せば「ああ、あの人ね」と通じる人もなかにはいた。

「前に韓流風イケメンって言ってたあの人?」「部署は?Aの人?Bの人?」と、「私の好きな人=職場の人」という体(てい)で追求を重ねていく彼。厳密に言えば違うけれど、それでも彼が私の職場に出没する頻度はそこそこ高かったから「私の好きな人=職場の人=彼」という等式は成り立つといえば成り立つ。

「知らないかもしれないし、もしかしたら知ってるかもしれない」には、「私が惹かれている部分は、君が自分では気づいていない所なのかもしれないね」「君の知らない君がいるのかもしれないね」そんな意味合いを込めた。

うーん、ちょっとポエミーすぎるだろうか。

◎          ◎ 

そんなこんなで電話越しの攻防戦をしばらくの間続けていたけれど、ある日彼が急に大きく仕掛けてきた。「ラーメン食べに行こう」と誘われた、休日の夜のことだった。つまり電話の向こう側ではなく、彼はすぐそばにいた。

「どうしても嫌なら、このまま知らんぷりを続けることもできるけど」

そう、彼が言い出した

主語がどこにもないから、最初は何の話をしているのかわからなかった。でも、「何が?」と訊き返すのは野暮だと思った。多分あのことだろうとは察しがついたけれど、それでもまだ確信が持てない。もう一歩の「えい」が踏み出せない。

心の奥に触れてしまうのが、こわい。けれど、攻防戦はもう飽きてしまった。張本人が目の前にいるのに、小さいウソを散りばめ続けるのが嫌になった。

なるようになればいい。半ばやけくそで、私はストレートを打った。

「じゃあ訊くけどさ、私のことどう思ってんの?」

何となく悔しかったから、すぐに「好き」とは言わなかった。
要するに彼は、いつからかは知らないけど私の気持ちにはとっくに気付いていたのだろう。気付いてたけどずっと知らんぷりしてましたよ、ということなのだろう。

「その訊き方はもう、自分から言っちゃってるようなもんじゃん」
「そうだよ、私はね。それで?そちらは?」
「え?……んー」

薄闇の中で、彼が動く。無言で手を繋いできた彼の瞳を、私はじっと覗きこむ。
喜びよりも、安堵のほうが大きかった。やっと怖がらずに、ウソのないまっさらなものに触れることができるんだ。