子供時代、保育園に通っていた頃から10代のほとんどの時間を「早く大人になりたい」と思って過ごしていた。
大人になりたかった理由はただひとつ。
「早く家を出たかった」から。
毎晩、眠る前に「早く大人になれますように」と願うほど、とにかく大人になりたかった。
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なぜ、家を出たかったのかと言われると母親との生活が嫌だったからに他ならない。
母親の話し方も、怒りっぽいところも、断定的な話し方も、他者と比べて否定することも、連れてくる男の人もみんな嫌だった。
何よりも当時のわたしには何も選択する権利がなく、母親について行くことしかできないということがつらかった。
両親が共に暮らしていた時も、保育園の家族単位で参加するイベントにはいつだって喧嘩をするのではないかと、ひやひやしていたものだ。
小学校高学年のとき、歳の離れた妹ができた。彼女はわたしをひとりの大人として頼りにしてきた。お腹が空けば泣き、寂しくなれば泣き、遊びたければ泣き、自分を大いにアピールしてくる。当時のわたしのやるべきことややりたいことはそっちのけで妹に構う日々。絵本を読み、納豆ご飯を与え、一緒にお風呂に入って、寝かしつけ。長期休みには保育園の送り迎えもした。むくむくと母性が湧いてきて、彼女の卒園式ではボロボロと涙が止まらなかった。
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「あー。こうやって母親は私を見ていたのだ」
そう気づいてから、やっと母親を母親として実感するようになった。わたしに向けられる否定的な言葉のなかにも彼女なりの優しさが詰まっているように感じられた。自分をやっと彼女のこどもだと感じ、こどもらしくいられるようになったと思う。
大学を卒業して数年経った今、こんどは自分が母親になった。息子はもうすぐ、2歳を迎える。
歳の離れた妹がいたせいか、子育てを初めてとは感じていない。余裕のあるなかでの子育てだからか、彼の成長をのんびりと構えて見ている。
時に風邪をひきながらも、保育園生活を満喫している彼はどんどん自分の世界を広げている。親バカながら頼もしい存在である。
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いつも思うことは、「こども時代を精一杯楽しんで」ということ。両親のごちゃごちゃや大人への変な気遣いを覚えることなく、目の前にあるものを見つめて、自分なりの楽しみ方で今を生きてほしい。
わたしは、そのためにはなんだってやってやりたいと思う。
情報が飛び交い、気づけばiPadをみたがる息子。ひとたびタッチすればいろんな動画(世界)へと通じていく。この先、彼はどんな世界を生きていくのだろうか。わたしも一緒に楽しめるかな。そんな、不安のような迷いのような思いが湧いてくることもある。
「一生一緒にいてくれるわけではないから、一緒にいられる時を大切に」なんてありふれた言葉に共鳴して、今、同じ時を家族として生きている不思議。
さあ、明日は彼と何をしよう。庭で遊ぼうか。食べ物を持って公園へ行こうか。彼の笑顔をたくさん見られる1日をつくろう。