私は子どもの頃、サンタを信じているフリをしていた。

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私の両親は、娘にサンタクロースを信じ込ませるために、あらん限りの情熱を注いだ。わが家には煙突がなかったので、クリスマスには煙突と暖炉のある別荘を借し切りにし、知り合いの白人男性にサンタ役を頼み、なんと本物のトナカイをレンタルするという気の入れようである(今から思えば、どうやって調達したか、不思議だ)。親にここまでされたら、子どもは騙されてあげるしかないだろう。小学生ともなれば、学校で入れ知恵されてくるので、サンタは各家のパパがやっているというくらい、とっくに気づいている。けれど、親がどうしても子どもに夢を見させたがっているのだ。ならば、大人のニーズを察知してお芝居するほかないだろう。

大人になった今、そのことを両親に告げると、「なんだ、気づいてたの?」と驚いていたけれど、子どもは大人が思う以上に色々なことが分かっているものである。「どうしてそこまでして、サンタを信じ込ませたかったの?」と訊くと、次のような答えが返ってきた。

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私の母は子どもの頃、母(私の祖母)に「サンタって本当にいるの?」と聞いたことがあるという。母も、本当はいないと知っていて、それでも祖母の反応が知りたくて、無邪気を装って尋ねたのだ。普通の親ならここで、「もちろんいるよ」と答えるものなのだが、祖母は違った。「サンタなんて、お金持ちの家にしか来ないのよ。うちになんて、一生来るはずないじゃない」。実際、母の同級生で社長令嬢だった女の子が、小学6年にもなって、まだサンタを信じており、「そんなのいるわけないじゃん」とツッコミも入れられないくらいのイノセンスを抱え持っているということに、母は子ども心に思い当たった。こんな悲しくみじめな思いは自分ひとりで十分。大きくなるまでサンタを信じられるというのは、子ども時代の幸福の証のようなものだ。自分の娘はそのように育てようと。よく、「サンタなんて本当はいないのに、親が『いる』ってウソをついてた」と苦情を言う子がいるが、そういう子は幸せである。うちの祖母のように、子どもに夢を与えるためにウソをつく手間と労力さえも省略する親に比べれば。

私は、騙されたフリをしておいてよかったと思った。母はサンタが来るようなおうちを築いた。そして、サンタを心から楽しみに待っている娘を通して、子ども時代の母の心の傷も救済されたのではないだろうか。

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ちなみにプレゼントは、毎年私が欲しいものが確実に届いた。もちろんサンタを信じ込ませている手前、「何が欲しい?」などと正面切って野暮な質問はしない。今、私が大人になって感心するのは、母の観察眼の鋭さだ。日頃の娘の言動から、あれだけぴったりと娘が欲しがっているものを推し量れるとは。そのことを母に言うと、「母親なら当然」だと言うが、母は半年前くらいから、それとなく娘にリサーチしていたというから、愛情の大きさに頭が下がる。私は今でももらったプレゼントをそらんじることができる。1年生のときは、ピアノの形をしたオルゴール、2年生のときは、うさぎのアップリケのついたミトン……5年生のときは、大好きだったサンリオのキャラクターの財布、といった具合に。

最近、幼稚舎から慶応に通ったお嬢様で知られる作家のエッセイを読んだら、彼女もまた、サンタを信じていた期間が長かったと書いていて、妙に納得した。私は子どもを持ったら、やっぱりサンタを信じ込ませるように周到な用意をするような気がする。もしそれで、子どもが信じているフリをしていたとしても構わない。大人になったとき、それも含めて笑い話にできる日が来るのが今から楽しみだ。