ウソは、自分の心を疲れさせるものであると思う。

感じたこと、思ったことを偽りの言葉で相手に放ち、あたかも本心であるかのようにみせる。相手に狙い通り伝わったとしても、思いも寄らないところでブーメランはやってくるのだ。ウソをついた瞬間も、ってきた瞬間も、自分が行った偽りについて後悔する瞬間である。

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仕事をしていてミスをしたとき、素直に自分がやったことであると言えなかったときがあった。書類の記入ミス、内容がうまく処理できていなかったことがあり、職場の先輩に事情を聞かれた。どのような運びで記入されていたのかを聞かれたのだが、うまく答えられなかった。

記入したのは私だとわかる書類であったため、それは認めた。それでも経緯は思い出せず、私はよく覚えていない、と答えた。聞かれ終わったあと、少しずつ自分の中に何かが引っかかる。それとともに徐々に記憶が鮮明に思い出されていった。

私が犯したミス。自己判断で書類を記入し、先輩に確認を取らなかったことが原因だった。ここですぐに思い出したことを話せばよかったのだが、どうにも言えず、結局事情が深く思い出せないままだったということでこの話は片付いた。

出来事としてすぐに収束したのかもしれないが、本当のことを言い出せず、知らないとウソをき通してしまった自分にはとても後悔が残った。

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ウソをついたとわかった瞬間や、ウソをつき続けたほうが都合が良いと判断してしまったことも、私の良心を揺さぶった。良かれと思ったことを過信して行ってしまったがゆえのミス。全ての原因は私にあるのに、自分だと言わず、知らないことにしてしまったのだ。

ウソというより逃亡に近いかもしれない。その場しのぎの小さなウソだったつもりが、ミス自体も大きくして、自分の心への負担も大きくした。

ウソをついてしまったことへの罪悪感と、これを繰り返してはいけないという戒めの気持ちも生まれた。

しかしながら、問題が解決してしまった以上、名乗り出ることはできない。一旦は片付いた案件。ここで掘り返せばさらに大きなことになりかねないと思った。さっきと言っていたことが違うとか、信憑性がないとか、話が飛躍しそうであったことも関係している。

いろいろ考えていけば時間が経過し、次の仕事が割り振られ、全く関係のない話が広げられる。もう、ウソを訂正する機会はない。私以外の人の中では、私のウソが真実となっており、時間は次に進んでいる。

自分だけが取り残されて、一人モヤモヤを抱えながら無理やり仕事をこなしている状態なのだ。

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ウソくということは、その場しのぎであってもものすごいエネルギーを使う。普段何気なく話しているときには使わない、中身も外堀も完璧に埋めなければいけないというプレッシャーがあるのだ。

誰もツッコミようがない受け答えと内容を作らなければいけないので、表情が固くなり、口から出任せ状態が作られる。完璧だと思っているのは自分だけであることに、気づいていないのもこのときの特徴だ。

きっと相手には隠していることが伝わっているのだろう。仕事が終わったとき、休憩に入ったとき、自宅に帰ったとき、さまざまなタイミングで取り返しのつかないことをしたと反省する。次からは素直にミスを認めよう、仕事をしている間は正しく生きようと思う。

過去にそういう経験があったから、今はきちんとミスを認めて謝るように意識している。気を抜と、また見栄を張ってしまいそうだから。自分がモヤモヤして後悔するサイクルを続けないためにも、自分がウソかないように気をつけることは大切だと思っている。ウソは自分を疲れさせる、エネルギー消費が多いこと。

常に前向きに仕事に取り組むためには、ウソをつかないよう、自分が素直になれるように気をつけなければいけないと学んだ。たとえ小さなウソでも、大事になることがいくつもある。発端は間違いなく私だ。自分がウソをつかないことでエネルギーを保てるのだから、ウソはつかないことをこれからも心がけて過ごそうと思う。