「これはハマゴウという、広島の廿日市で採れた薬草を使った今年限定のジンなんですよ」
世界遺産・厳島神社を有する瀬戸内海に浮かぶ島、宮島に初めてひとりで訪れたのは、私が社会人1年目を終える間際の2月下旬。高校2年生の修学旅行以来の宮島は、懐かしさもあり、新鮮さもあった。中でもお酒は、その後者を促すもののひとつだった。
日本有数の観光地である宮島も、ほとんどの飲食店は早い時間に閉まってしまう。そんな場所で唯一、「深夜1時まで」という魅力的な営業時間を表示するバーがあった。
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まっすぐに伸びる細い階段を上ってドアを押すと、バーカウンターにたたずむマスターと、その後ろで誇らしげに立ち並ぶ無数のお酒が出迎えてくれる。その中でも、ひときわ青が透き通る四角いボトルが目に入った。
おかわりを尋ねられたタイミングで「あのボトルきれいですね」と声をかけると、「国内で作られているジンは珍しいんですよ」と、マスターは地元広島で採れたハマゴウを使ったジンを紹介してくれた。
氷がたくさん入ったグラスに注がれるのは、少しのジンとトニックウォーター。「ジンを試すならこれが無難ですね」と、手際よくジントニックを作る。名前こそよく聞くそのおしゃれな飲み物は、ほろ苦く、けれど炭酸とともに甘みが爽やかに抜ける、初めての味。
「どうしてもっと早く出会えなかったのだろう」と、今までの行いを悔いるほど、感動的かつ衝撃的な出会いだった。
おいしい。おいしい。
ついもう1杯、また1杯とおかわりを頼む。薄暗いおしゃれな面構えのバーで、いちいちお酒の値段を訊くなんて無粋なことはしない。ひとり黙々と飲みたいものを、食べたいものを、欲しい数だけいただいた。
途中、近くの寿司屋を営む大将が自分の店の閉店に合わせてここを訪れて、「いつもの」甘いカクテルとティラミスを注文した。おいしいお酒を片手に地元民の会話に溶け込む、実に幸せな夜だった。
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次の日私は早速、マスターに教えてもらった近くの酒屋さんで、昨日飲んだジンを購入した。青く透き通るボトルは手に取るだけで見惚れてしまうし、これが家にあると考えるだけでときめく。帰り際にトニックウォーターも買い足し、わくわくしながら家に着くと、早速ジントニックを作って飲んでみた。
あれ、全然おいしくないんだけど……。
ほろ苦かったその味は苦味ばかりが残り、トニックウォーターの甘さとまるで分離している。とても飲めたものではない。どうして。おかしい。
それから「ジントニックにおすすめのトニックウォーター」と検索をかけたり、他のトニックウォーターを試したりしたものの、やはりあのときの味は再現できず、苦くてまずい強炭酸カクテルがひたすら誕生するだけだった。
やっぱりお店で飲むからおいしいのか。次また訪れたときにいれ方も教えてもらおう。新たな楽しみが生まれたところでまた、宮島に行く計画を立てた。新型コロナウイルスの影響が少し緩和され始めた頃だった。
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営業時間が変わっているかもしれないと思い、マップに保存済みのそのバーを再び検索すると、一瞬時が止まった。お店の名前の下には、小さな赤文字で「閉店」と書かれていたのだ。
新型コロナウイルスは、飲食業や観光業に多大な影響を与えた。当然それは宮島も例外ではなく、そこで営む飲食店は更なる苦行を強いられていたのだろう。
私に初めてジントニックのおいしさを教えてくれたバーは、私の知らない間にひっそりと役目を終えていた。
あのときのマスターは確か、奥さんとともに元の住まいから引っ越して店を構えたと記憶している。今ごろどうしているのだろうか。
5年以上経ってもほとんど減らないジンを眺めながら、今でもたまにあの夜を思い出す。