その喫茶店の名前を忘れてしまった。けれど、自動ドアが開くと右手にカウンター、左手にいくつかのソファ席がある、こぢんまりとした空間の中に所狭しと観葉植物やら日に焼けたぬいぐるみ、細々とした置物が溢れかえっていた風景は、なんとなく覚えている。

店内に入ると腰の曲がった奥さんが茶色のグラスでお冷やと熱いおしぼりを出してくれ、私はひとりでそれを受け取り、ランチのナポリタンセットと食後のコーヒーを注文する。会社から歩いて五分、今ではすっかりギスギスしてしまった上司と一緒に来たのは、最初に連れてきてもらったきりだった。

◎          ◎ 

いたる所に細かな傷がついている皮張りのソファに背中をどっかりあずけて、カウンター席で常連のお父さんがつまらなそうに新聞を読んでいるのをチラリと見る。店の角に置かれた小型テレビでは、いつも通り徹子の部屋が流れていた。

なんでこんなに落ち着くんだろう、と考えて、人も物も、私よりも若く新しいものがなに一つないからだ、と思い至った。

職場のデスクに座っているだけで、毎日毎秒急かされるような気持ちになる。午前中ですっかり疲れ切った心を、フライパンの上で跳ねる油の音と、ケチャップの甘い香りが撫でていく。

◎          ◎ 

右側にトマト、きゅうり、レタスのサラダ。左側にナポリタンがうず高く盛られた細長い陶器の皿が運ばれてくる。使い込んであるのが分かる清潔なフォークをトマトに突き立てて、口に運んだ。ドレッシングが美味しいけれど、これはどこのなんだろう。

昔々ダイエットに精を出していた頃に覚えた「食事は野菜→炭水化物の順に食べるといい」という情報を遵守しているので、サラダを平らげてからナポリタンに移る。フォークにパスタをグルグルと巻きつけると、細切りのピーマンや玉ねぎ、ごろっとしたひき肉が着いてくる。そのまま一気に頬張った。

全体的に水分量の多いナポリタンは、ちょっとないくらいに美味しくて、胃に飛んでいくようだ。ものの五分で平らげ、運ばれてきたホットコーヒーを啜った。

◎          ◎ 

甘めのナポリタンは、これまでいくら泣きながら食べてもしょっぱくなることはなく、どんな時だって美味しくて、私に優しかった。仕事で失敗したこと、上司と意思疎通できなかったこと、うまくいくように頑張ったけれど結局ダメで、ダメにならないように頑張ろう、と思うのにも疲れてしまった。

私は明日、最終出勤日を迎える。

壁掛けの鳩時計で昼休憩終了まであと三十分あるのを確認した時、スーツ姿の男性が入店してきた。珍しい。ビジネスバッグを持っていて、どうやら同じ会社の人間ではないらしい。私よりも若そうに見えた。

私の後ろのソファ席に着いた彼は、少し悩んでからナポリタンセットを注文し、運ばれてきたそれをあっという間に食べ終えた。皿を下げに来た奥さんに「たまたま入らせてもらったんですけど、すごくおいしかったです」と言う声が聞こえた。

「こんな駅から離れたところにあるのに、よく見つけたね」と、奥さん。会話を聞いていると、彼はスポーツ新聞の営業で、このエリアを担当しているらしい。まもなく迎える東京オリンピックの期間だけでも、購読してくれるお客様を探しているのだとか。

大した勧誘もしていないのに、奥さんは

「あぁそうなの。じゃあ、取ろうかな」

と言った。え、いいんすか?ほんとすか?と、青年は驚いて口調も崩れている。しばらくやりとりがあって、

「だってこんな縁、そうないもん」

と奥さんが言った。青年は孫くらいの年齢だろうか。

◎          ◎ 

人間が優しく繋がる瞬間を目の当たりにしたのは、いつぶりだろう。会計を済ませて、いい店だったな、と私は静かに思った。それから今に至るまで、自分で作っても外で食べても、あの味を超えるナポリタンには、一度も出会えないままでいる。