私は機能不全家族の中で育った。父はモラハラ、酒乱で、母はその父から私を守るために、過干渉になった。今でも母にはその名残があって、母を切り離して生活することすらできなくなっている。
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物心ついた時から父と母は喧嘩が絶えなくて、一人っ子の私は二人が対立する度にどちらの味方につくのか選ばされていた。私にとっての父は、勉強しているのか、どんな大学に行ってどんな仕事に就く気なのか、ちゃんと金銭や身の回りの管理ができているのか、そればかり口うるさく言ってきて、それ以外は興味なし。
何も知ろうともしない。反発する度に母のようにはなるな、母の言うことを聞いたらちゃんとした大人にはなれなくなる。家を出て父と音信不通にするまでの23年間ずっとそう言われ続けていた。だからいつも友達の家庭での父親との関係性や、街でみかける父がいる子連れの家族を見るたびに羨ましい、でもうちにはあり得ることがない、と思い続けていた。
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そんな家庭の中にいることを知っていたから、私にとって父親のような存在としていてくれたのが祖父だった。小さい頃から行きたいところには連れて行ってくれて、よく一緒に百貨店に行くたびに大好きなアイスを一緒に食べたこと、母と喧嘩した時は必ず電話で仲裁に入ってくれたこと、大学を卒業できないかもしれないとなった時に助けてくれたこと、転職で地方移住することになった時に背中を押してくれたこと。
祖父は昨年101歳での大往生で亡くなったけれど、生前体調が悪くなり、少し危なかった時に、母に「●●(私)が幸せになれるまでは置いては死ねない、あんな父親だったからこそ、自分が父親代わりのつもりで見守ってやりたい」と言ってくれていたそうだった。
私にはそんな気持ちは一言も話してくれたことはなかったけど、私の家庭環境が辛い状況だったにもかかわらず、曲がることなく、他人に愛情を持って接することができる人間になれたのは祖父のおかげだと思っている。
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祖父が亡くなって遺品整理をしていた時に、祖父が日課としてつけていた日記がたくさん見つかった。幼少期から祖父が日記をつけている姿は何度も見かけたことはあったけど、もちろん読んだことはなかった。祖父の亡くなる時、もうほとんど意識はなく話すことはできなかったのと、特に遺言も残していなかったので、最期まで何を思ってくれていたのかはわからずになっていた。
読むと涙が止まらなくなってしまうので、いまだに一部しか読めてはいないのだが、私の学校生活について話していたこと、悩み、父母とのこと、何度か転職したこと、現在の仕事のこと、父母には気を遣って言えていなかった私の素直な思いを唯一祖父には話していたので、私が話したことをすべて聞いて書き留めていてくれた。
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祖父は高齢だったのもあり、認知症とまではいかなくても物忘れは多くなっていたので、日記に書いて私が話したことをしっかり覚えていてくれようとしたこと、話したことに対して思っていてくれたことが書かれていた。
最期まで私を思い、向き合ってくれていた温かさと優しさ。父親代わりとして祖父が生きてくれていたから、今の私があるので、祖父には本当に感謝している。生前そのことを伝えて、「ありがとう」を言えなかったこと、それだけが今でも心残りである。ただ今でもきっと見守ってくれていると信じて、心配かけないように、自分なりの幸せを掴んで、いつか報告できるように生きていこうと思う。