父親のことが好きか嫌いか問われても好きとは答えられない。
それくらい現状の私は父親に対してネガティブな感情だらけだ。できるだけ私の人生に登場して欲しくない、とさえ思っている。
しかしそんな私も父親を信仰していた時代があり、やがて魔法が解けて現在に至るのだ。

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私と父の関係性はきっと「普通」ではない。6歳頃から両親の不仲が始まり7歳頃から父は住まいを共にする相手ではなくなった。
それでも父なりの私に対する配慮があり、年単位でゆっくりと家に帰ってくる日段々減らしていってくれた。1週間のうち5日は帰ってくる、3日は帰ってくる、週に1回帰ってくる、2週間に1回、月に1回と私の成長とともに頻度は減っていった。帰ってくるという表現さえもはや合っていないかもしれない。

しかしそんな生活を私が大学生になるまで続けてくれた(14歳の時に両親は本格的に離婚した)

18歳の頃までは父親のことが普通に好きだったと思っている。「普通に」というのはなんの疑いもなく、という意味である。なんなら困ったときに頼る最終手段がいつも父であった、というくらいには信頼していた。
しかし、それも高校3年の終わりに崩れた。

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高校3年生の12月、母が病気で倒れ入院した。ずっと母と2人で生活してきた中で、それは突然の出来事だった。生活の何もかもを母に頼りきりだった私は大学受験を控えたこの時期に突然生活がままならなくなってしまったのだ。
そこで私は父に頼った。
そして、10年以上ぶりの父との共同生活が始まったのである。

しかし、父との共同生活はあまり良いものではなかった。
まず、年末年始は私を置いて遠方の実家に帰省する。家事も私にあれやれこれやれ言い、俺の家じゃないのになんで俺がやらなきゃならないんだ、とまで言う始末。そして試験当日に起こさないからな、起きれなかったら自業自得だからな、と口を酸っぱく言われる。

さすがに途中で私も感情的にブチ切れてしまってそこからはなぜか家事は少し手伝ってくれるようになった。

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しかし一連の父の行動により、私はある仮説に辿り着く。

「父は私のことを愛していないのではないか」

そう気がついたとき、青ざめるとはこのことを言うのかと思った。入院中の母に相談したら「いつも自分のことばかり考えているよね。愛がない」と言っていた。

高校受験に落ちたとき、泣いて悲しんでいたら自業自得だと父に言われた。

私の好きな曲やキャラクターを父の中のものさしだけで計り否定してきたりもした。

年末年始に私が1人で寂しい思いをするのも厭わず、実家に帰ったことも何もかも辻褄が合ってしまったのだ。
父は私のことなど本当はどうでもよくて「娘」という存在を最大限利用していたに過ぎなかったのだと思った。きっと年末年始に帰ったときも親戚一同に娘の面倒をちゃんと見ているアピールをしていたことだろう。

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父との共同生活は1カ月ほどで終わり、また母との日常に少しずつ戻っていった。
父は最終的に、私の大学の学費を途中まで払ってくれた。そのことには感謝している。
しかし今の私が父という存在を端的に表すとしたら「種馬とスポンサー」という表現がしっくりくる。
私の養育費を全うしてくれたこと、そして父がいなければこの世に私が存在していなかったこと、その両方を十全に表せていると思う。

社会人になった今、父と会うことはほとんどない。