人生の節目節目で、やや強引に私の人生の進むべき道を示してきたのは、今から考えると父だったのかもしれない。
音楽の勉強をしたいと主張する私に、中学は進学コースに行って勉強をすることを勧めたのも、そこで成績をキープすれば高校で音楽コースに行くことを許すという条件をつけたのも父だった。その後も、公立の芸大に行くことや、浪人、公立芸大に行けば留学を許すことなど、全部父が私にはっきりと指し示していた。
それらは私にとってかなり大変な道のりではあったけれど、『学歴は親が与えられる最後のプレゼント』と誰かが言っていたように、父は最上のプレゼントを与えてくれた。
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父はあまり子どもに興味がないのだと思っていた。けれど休日に開催される私の演奏会には、しばしばよく母と2人で顔を出してくれていた。留学の資金もどこかから必死になって集めてくれて、約束を全力で果たしてくれた。
もちろん全部が全部、理解ある素敵な父親というわけではない。父が私に暴言を吐いて傷付けたときは、母がそのことに激怒して、謝罪として私に何か買い与えて、ということも何度かあった。距離感は難しいし、自分がされて嫌じゃないことも、でも私が嫌な場合があるということも、少しずつ知っていってくれた。
そして病気になって音楽を休んで、なにげなくアパレルブランドの正社員になったとき、1番喜んでいたのは父だった。
父の趣味は、お洋服だ。買い物好きだった父方の祖母の遺伝をまるっと受け継いで、父も洋服を買ったり家族に買い与えるのが好きだ。
父はお気に入りのいくつかの洋服屋さんに買い物に行っては「下の娘が〇〇に就職したんよ!」と自慢していた。何度も辞めよかなと弱音を吐いていたら、「辞めるなよ、もうちょい頑張れ」と背中を押す。
そして毎シーズン、ブランドの制作発表を一緒にチェックして、私と2人で洋服の話をする。私が受注会の時に注文すると社員価格で買えるので、それで父は思いっきり買い物をしている。私と洋服の話をするのが楽しいらしく、以前配属されていたメンズの店舗にも、両親揃って買い物をしに行くようにもなった。
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2024年のお正月に「今年で西国のお遍路、廻り切ろうかな」とぼそりとつぶやいて始まった両親と3人の西国巡礼。一昨年から昨年にかけて、祖父母が立て続けに3人亡くなり、その時棺にいれていた御朱印帳が見栄えが良かったらしく、父が自分たちの分も、と急に始める気になったそうだ。
私は高校生の頃から細々と集めていたのだが、行きにくいところばかり残ってしまい、近場なら車で行けるよ、と父の申し出から最初に行ったのは、大阪府和泉市の「施福寺」というお寺だった。ここが西国巡礼最大の難関だったそうで、片道30分ほどの山道を3人で歩く。来年で還暦を迎える両親は、まだ見た目は若々しいけれど、2人ともそれなりに老いを重ねている。
これが最初で最後なんかな、と2人の姿を見ながら思った。
父は先日、背骨と膝の骨に問題があることがわかって、痛み止めと胃薬を服用している。
そして5月。大腸がんの検診で引っかかった、と知らされた。とりあえず血液検査をして、それでダメなら大きな病院で精密検査して、必要なら手術をする、という流れだそう。近年はがんも治る話もよく聞くし、友人の父親もステージⅣから復活したそうだ。
「許可なく死んだら、マジでしばく」と父にふざけて言うと、「うるさいわ!」と笑っていた。
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恒例の月一お遍路は、5月は京都の亀岡にある「穴太寺」に行った。新緑が美しく、庭園では見頃のさつきが鮮やかに咲き誇っていた。本堂内の右側には、木造の涅槃釈迦像が置かれていて、自分の治したいところを触ってから、お釈迦さまの同じ部分を触ると、症状が良くなるそう。それを聞いて父はお腹を触っていた。「足と背中も触らんなあかんやん」と言うと、自分で足を触り、背中は手が届かないからと、母が代わりに触っていた。
母の方が大切だと思っていたけれど、案外、父も、同じくらい大切だった。そんな2人を横目に、穏やかに笑う仏像に手を合わせて、いつまでも仲良く、元気でいてください、と心の中でつぶやいた。