私にはふたりの姉がいる。
私が5歳の頃、ふたりの姉たちはピアノを習っていた。
ある雨の日の夕方のこと。2番目の姉が「ピアノ休みたい」と言った。

「大丈夫だから、行こう」と母が言う。
なんだかんだ揉めたものの、結局、次姉も車に乗ってピアノ教室へ向かった。こんなふうに行き渋って揉めるのはよくあることだった。

◎          ◎ 

そして着いたはいいものの、次姉は車から降りようとしなかった。
「やっぱり行かない」と次姉が言う。
「わかったよ」と母が言う。

休むことを伝えてくると言って母は車を降り、長姉とピアノ教室へ入っていった。
不機嫌そうな次姉を見て、私は鞄から、小さな巾着に入ったバター飴を取り出した。先日、知り合いからいただいたお土産だ。

「たべる?」と聞いてみると「たべる」と答えが返ってきた。
バターの甘さが、じゅわぁと口の中に広がっていく。やさしくて、どこか懐かしい味。

「おいしいね」
「うん」

ふたりで静かな時間を過ごした。

◎          ◎ 

車の屋根に当たる雨音だけが響く。
雨が強くなっていく。
雨の日は暗いせいか、少し不安になる。
次姉もそうなのかな。
あまり話してくれないけど、大丈夫だよね。
そう思っていた時だった。

「…帰りたい」

次姉はそう呟くと、車のドアを開けて出て行ってしまった。
突然のことに驚き、戸惑っていると、
ちょうど母と長姉が戻ってきた。

「お、お姉ちゃんが出て行っちゃって…」

あわてて伝える。

「方向は?!」

母もあわてていた。

「た、たぶんあっち。家のほう」

車を走らせ、目を光らせる。いつも安全な母の運転も、心なしか、荒く感じた。不安が募っていく。
雨も強くなっていく。

◎          ◎ 

次姉を引き止められなかった私のせいかもしれない。私が車の中の雰囲気を明るくできなかったからかもしれない。もし、次姉が見つからなかったらどうしよう、何かあったら、どうしよう…。

心が冷たく、重たくなっていく。
次姉は秋の夕方の冷たい雨の中、ひとりきりで走っていた。
母があわてて、次姉の近くに車を停める。

「どこに行こうとしていたの?!」
「……帰りたかったの」

たしか、そんな話をしていたと思う。

次姉は泣いていた。
雨で濡れていた。
バター飴はもうだいぶ小さくなっていて、舌でこするとまだ味がして、でもすぐに溶けて消えた。

次姉のバター飴も溶けて消えちゃったのかな。
雨の中泣きながら舐めたバター飴はどんな味がしたんだろう。
どんな気持ちで車から飛び出して、どんな気持ちでひとりきりで走っていたんだろう。
私は、車の中から見ているだけだったけれど雨のにおいと不安がまざった寂しい味がしたよ。

◎          ◎ 

バター飴のことも、この寂しく切ない味も、今でも忘れられないでいるよ。
美味しいバター飴であるのは変わらないはずなのに、あの夕暮れ時を思い出しちゃって不安になるんだ。

やさしく懐かしい味のバター飴。
けれど懐かしさも美味しさも、良い思い出とは限らない。だからバター飴は少し苦手だ。
今でもバター飴を舐めると、ひとりきりの次姉と冷たい雨の記憶を思い出す。