この3週間、入院している。
ある日突然首にしこりができ、原因不明の39.0℃台の高熱に襲われた。白血球の値が基準を遥かに下回った。肝臓の炎症の値も、その他何度説明されても覚えられなかった採血結果の値も底を割った。何度目かの緊急搬送で入院が決まった。
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入院してから3週間は目まぐるしく変わる体調に振り回された。食欲はまるで沸かず、初発症から数えて体重は7キロ落ちた。失語症症状のあるてんかんを発症し、言いたいことがまるで言葉にできないもどかしさを初めて味わった。
が、それも過去の話である。
ここの1週間ほどは、高熱も収まり、てんかん症状やその他の不調もだいぶ改善した。なにより食欲がめきめきと戻り、1日3食の入院食で物足りず、婚約者や家族からおやつを大量に密輸し、夜な夜な摂取する毎日である。
今週はあと脳波検査他を2回受けるだけであり、圧倒的に暇なのである。
入院していると暇すぎて、日常のささいなことが、いちいち入院生活を構成するイベントとなる。シャワーを浴びたり、ご飯を食べたり、電話をしたり、エトセトラ、エトセトラ。
だから、歯でも磨くか、と思い立つ。
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自慢でもなんでもないが、私は根っからのめんどくさがりだ。日常での歯を磨くタイミングは、1日3食後などではなく、口臭と咥内の気持ち悪さが限界になったらというものだ。だからしょっちょう虫歯になって、しょっちゅう歯医者さんのお世話になる。毎回治療が終わるたびに、今度こそ1日3食後にはみがきをする女になるのだ、と誓いを新たにするのだが、守られたためしはなく、29歳にまでなってしまった。多分一生このままなのだろう。
しかし、そんな私が進んで歯磨きをしようかと思い立つ。入院生活がいかに暇なのかこんなところからも分かるのだ。
洗面台の前に立つ。歯ブラシのブラシを水に潜らせ、軽くうがいをする。歯磨き粉の蓋をとり、ぶりゅりゅりゅとブラシの上に捻り出す。口の中にブラシを放り込む。口の中でブラシを遊ばせていると、ふと思う。「あ、歯磨き粉3色だったな」と。
3色の歯磨き粉など珍しいものではなない。むしろ、色付き歯磨き粉界の中では、主流と言っていいものだろう。特別でも変わったものでもなんでもない。でも、私にとって3色の歯磨き粉はそれ以上の意味を持つ。
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あれは、小学校1年生の頃だった。夏の盛りだったとおもう。いつものように給食を楽しみにしていると、担任の先生から「今日は特別にランチルームでお話を聞きながら給食を食べます」とアナウンスされた。ランチルームに行くと、おじいさんが1人中央に座っていた。「今日はこのおじいさんに色々お話を聞きたいと思います、せーの」と先生に掛け声を取られ、優等生だった私はつい最前列をキープし「よろしくお願いいたしまあーす」と大声を張り上げた。
夏だった。戦争の話を聞こうというワークであった。私たちの小さな頃のおじいさんやおばあさんは、すでに、戦地に赴いた世代でなく、学童疎開をした世代であった。私たちに話されたのは劇的な空襲や苛烈な戦地体験ではなかった。学童疎開先で竹やりで備えたこと、貧しい食生活や農地経験など地味な話に、ほとんどのクラスメイトは関心を失っていたようだった。私も、最前列にいたから、関心を失っていないように見せるように必死なだけだった。話された学童疎開体験の話のほとんどは、思い出せない。
しかし、最後におじいさんが付け足した一言は、なぜか私の脳裏に残った。
「学童疎開ではなあ、食べるものがなくてなァ、おやつ代わりに3色の歯磨き粉を食べたんだよ。歯磨き粉だよ、家にあるだろう?今日おやつの代わりに食べてごらん」
家に帰った私は、さっそく洗面所に行き、3色の歯磨き粉を取り出すと、舐めてみた。歯磨き粉は歯磨き粉だった。これはおやつではない。これが私にとっての戦争の味となった。
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そして、これが私の自分の耳で聞いた、唯一の戦争体験談となった。私にとって戦争を語って聞かせられる人だった祖父母は、戦争を語らずに逝った。思い出すにはあまりに辛いことが多すぎたらしい。
その沈黙をこえ、あの日戦争を語ってくれたランチルームのおじいさん。昭和は今年で99年を超える。またあの惨禍が遠くなり、そして今ここにはまた別の惨禍がある。私はせめてたまのこのときくらいは、と、祖父母の沈黙とおじいさんの有弁に思いを馳せ、口の中の歯磨き粉を舌でぐるりとひとまぜした。