父には悪い口癖があった。

「どうせできっこねぇ」
「そんなの無理だ」

第一志望とする高校を選んだとき、教員になりたいと伝えたときにこの言葉を吐かれ、頭から否定された。やってみないとわからないという選択肢がなく、成功する確率が低いものはバッサリ斬り捨てる姿勢が腹立たしくて、何度反発したことか。

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1938年に生まれ、第二次世界大戦を経て、私の父は大人になった。

身長155cmと、男性にしては小柄なのは、戦後の食糧難で十分な栄養がとれなかったせいであろう。11人兄弟の次男だったこともあり、経済的な事情から、新潟の高校を卒業したあとは上京し職に就いた。

「本当は大学に行きたかったけどな。家にそんな余裕はなかったよ」

高校での成績は決して悪くなかったらしい。そこそこの結果を出しても、卒業後は働く以外の道はない。自分より順位の低い裕福な級友が、大学に合格し喜ぶ様子を横目で見るしかなかった。

今にして思えば、お腹いっぱい食べられなかったこと、欲しいものを我慢したこと、大学に行なかったことなど、父はたくさんの希望を諦めるために、自分に向かってこの言葉を発していたのかもしれない。

おもしろいもので、担任の先生が父に「子どものやる気を伸ばすのが親の役割ですよ」などと諭すと、教員は無理と断定していた態度がコロッと変わった。

自分が絶対正しいとは思っていなかったようだ。1時間後には「好きなことをやれ」などと言い始めるのだからおかしい。

子どもにかける教育費を惜しんではいけないと考えていたことや、手に職をつけるため、高校卒業後は3人の娘の大学や専門学校の学費を捻出してくれたことには大いに感謝している。

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その父が、18歳で上京し勤めた会社は物流会社であった。勤務地は築地で、海産物や生花の中継をすることから、東京湾が見えて汐の匂いがする場所だった。経理の仕事で採用されたのだが、車の運転をすることもあるため免許を取ったという。ある日、父は埠頭までトラックの移動を命じられ、指示された場所に車を停めて社内に戻った。

ところが、あとから上司が「車はどこだ」と聞いてくる。席を立ち、「そこにないですか」と外に出たら、ほんの何分か前に停めたはずのトラックが見当たらない。近くの人に聞いてみたら「海に向かって動き出して落ちたよ」と言うではないか。ハンドブレーキの引きが甘かったことが原因だった。

上司が慌てて社長と警察に連絡をした。父は真っ青になり、体は小刻みに震え放心状態のまま、やっとのことで座っていた。頭の中に「クビ」というカタカナが楕円を描いて回転していたに違いない。社長は留守だったが、社長夫人がすぐに駆けつけた。夫人は尋常ではない父の様子に気づき、話しかけてきた。

「笹木君、大丈夫? お昼は食べたの?」
「いやあ、それどころじゃないです。本当に申し訳なくて何とお詫びしたらいいか……」
「じゃあ、カツ丼でもとろうか」
「え」

てっきり怒られると思っていたのに、カツ丼が出てくるとは。父はトラックを失ったこと以上に驚いたそうだ。食事は喉を通らなかったけれども、このあと「免許取り立てなんだからしょうがないわよ」と夫人がとりなしてくれた。おかげで責任を追及されることもなく、そのまま仕事を続けられたそうだ。

もっとも、翌日の朝刊には、沈没事故として東京湾からクレーンで吊り上げられたトラックの写真が掲載されていた。目にしたときは真っ暗闇の現実に引き戻され、何度も落ち込んだという。

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このエピソードは子育てにも反映されたと感じている。

父は怒りっぽい性質だったけれど、相手をとことん追い詰めることはせず、許すことも知っていた。人の情けを感じられる世であれば、相手の立場を思いやる行動につながり、多くのことが上手くいくと信じている。

今のお若い方々には、失敗することを恐れる傾向があると聞くが、自分の失敗が多ければ多いほど、上手くできない人の気持ちがよくわかる。先輩となったとき、親となったときに、過去の失敗を生かすことができるのだ。成功の近道を探すことがすべてではないと伝えたい。
父はもうじき米寿を迎える。かつての口癖は断定口調から「ダメかもしれねぇな」「無理かもな」に変わった。子どもに頼ることも覚え、野菜を育てながら自然体で生きている。