わたしと母親の関係が良好だったのは、わたしが乳児だった頃くらいだろう。
わたしの3〜4才以降の写真には心からの笑顔は写っていない。
わたしの母親は祖母に自分がされたように、わたしを操ろうとした。正確にいえば、わたしが母の言うことに逆らわないように抑圧した。そして自分の理想を押し付け、その理想は留まるところを知らなかった。
特に好きでもない男と結婚させられ、高等教育も受けていなかった母親は、父親の育った家と自分の育った家の価値観を組み合わせて昭和の家庭でしかない家庭を生み出し、それが正しいと信じて疑わなかった。
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掃除、洗濯、料理、金銭管理はすべて母の仕事で、朝から多い時には父親とわたしときょうだいの3人分の弁当を作り、基本的に夕食が出前だったり出来合いのものだったりすることはなく、大きいおかずは父親、きょうだい、わたしの順に配膳されて母親だけ別のおかずを食べていることも少なくなかった。たぶん3尾入りの魚が安ければそれを買って自分は何か別のものを買っていたのだろうと思う。
わたしの育った家は家父長制でしかなかったし、「男子ご誕生おめでとうございます」という金封を見たこともあるし(きょうだいが生まれた時のものだった。もしかすると父親の育った家から渡されたのかもしれない)、母親はあからさまにわたしよりきょうだいを優遇していた。
わたしはだいたいのことについて怒られたりいちゃもんをつけられたり、化粧に口を出されたり自分の引き出しの中を調べられたりしていたが、きょうだいに関してそういったことは一切しなかった。
母の、わたしに対する「あれになりなさい、××に就職しなさい、それがだめならこの資格を取りなさい」、といった要求は成人しても止まなかったし、むしろどんどん強まっていった。わたしはそれらの要求に応じて動いていたし、早い友達は高校の入学式の前に開けたピアスも開けず、髪も染めないで家出まで過ごしていた。
たぶんわたしが何歳になっても母親の理想の娘は完成せず、あるいはわたしも滋賀県で起きた教育虐待からの尊属殺事件(滋賀医科大学生母親殺害事件)のような事件を起こしていたかもしれない。
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よく考えれば、17歳の頃にはお弁当をどうしても食べたくなくていかに食べたような形跡を残して捨てるかに苦心したり、自分で弁当箱を洗ったりして食べなかったことを隠していた。よくそれから5年以上も耐えていたな、と思うけれど、母親の作ったものは年を重ねるごとにだんだん食べたくなくなり、味がなくなっていった。
それからわたしには17歳から家出をした直後までは過食の傾向があって、高校の2時間目と3時間目の間の休み時間にパンを2つ食べたり、早弁して昼休みに揚げ物を食べたり、高校を卒業してからは出かけて夕方にマクドナルドのセットを食べてから家に帰って夕飯を何事もなかったかのように平らげていた。
父親となにかでどうしても顔を合わせないといけないとなると、食べたくもないスナック菓子(まったく好きではなかった)を買い込んで家族の知らないところで食べ漁ったりしていた。家出をしてからもクリームの入った甘いなにかとか、安売りになっている菓子パンを大量に買って来てはひとりで食べていた。
機能不全家庭に関するとある本に、過食する人はミルク、クリームみたいなものを過剰に摂取する、と書かれていたのとまるっきり同じだった。
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母親のようになるまい、というのは意図するまでもなく自然と思想も、思考も、かけ離れたものになっていったし、もちろん出産はせず、パートナーと静かに暮らしている。
服装も髪色もピアスも親元にいた15年分くらいの鬱憤をいま晴らしていて、ブリーチをした赤髪の、体にはピアスがぜんぶで5つ開いている。
地雷系の服やロリィタ服を着て、厚底靴を履き、目尻に極太のアイラインを引いて、それでも褒めてくれる人は褒めてくれるし、19歳くらいに見えるよとも言われるし、そうやってわたしは人生を生き直している。