「おまえは俺のことが嫌いなんだろ」
父が久し振りに家に帰ってきたとき、私を目にして発した一言だ。
父を思い出すと一番に出てくる言葉であり、この言葉以外にも、「え?」というようなあきれることを多く思い出させる父だった。
家族の元を離れて暮らしていた父だったので、父とはこうゆうもの、父は家にいる存在、そんな概念みたいなものが私の中にはなかった。テレビなんかでよく耳にする、「お父さん、おうちにいないの?」なんてことも聞かれたことがなかったし、いなくて当たり前で、たまに帰ってくる人、そんな存在だった。
声を聞かせようね、お話しようねと母と一緒になって電話をかければ、「どうせなにか欲しいものがあるんだろ」と、ただただ話したい私の気持ちを置き去りに、ネガティブな言葉で私をシャットアウトするような父。
そのくせ誕生日に贈られるプレゼントは、小学生に向けて、なぜか電動歯ブラシだったりして、嬉しくてときめくなんてこともなかった。
今思えば、きっとパチンコか何かでもらった景品だったのかもしれない。
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そして中学生のとき、両親は離婚し、父の記憶を重ねることは少なくなっていった。
大人になり、一人前に恋愛なんかをして初めて、「父親を知らないから上手に恋愛が出来ないのかもしれない」とコンプレックスのようなものを抱き始めていた。
私には父との楽しい記憶が一切なかったからだ。父と一緒に暮らした楽しい記憶がたくさんある、年の離れた姉に嫉妬して泣きわめいた日は、夜空にきれいな満月が輝いていた。
「おまえは俺のことが嫌いなんだろ」と吐き捨てるような父を、私はどうしたら理解できるのだろう、歩み寄れるのだろうと晴れないもやもやを抱えていた。
父が再婚したときは、あんな父でも再婚できるのか、と思った。
相手が日本人じゃないと聞いて納得し、同時に一人じゃなくなったなら、それはそれで良かったとも思えた。父に招集され、再婚相手も含めて、姉兄とともに集まった日は、「俺の話を聞いてくれ」リサイタル会となった。
再婚相手との新居をお相手の母国で内見してきたという。
「棚の建て付けが悪かった」などと、得意げに話す父は、私の知らない大工として生きてきた父の姿だった。そういえば実家の押入れを改造して部屋にしてくれたり、父が作ったタンスは今でも使っている。慣れ親しんだ祖父母の家も、2階を増築したのは父だったという。
◎ ◎
知らなかった父の姿はまだあったのだ。
知りたいと思っても、素直に話したり、聞いたりできる関係にはなれないまま、ある日父はがん宣告を受けた。胃腸の調子が良くないとかかった病院で、余命を言い渡されたのだ。
入院やら身内じゃないとできないことを一手に請け負うことになった。
神様がくれた、父との最期の思い出作りだったのだと、今になって思える。他の選択肢も色々あるんだよと伝えたが、人の言うことを聞かない父が選んだ治療方法は抗がん剤治療だった。
私はただただ、連絡がないことが「問題ない」と信じていた。
再婚相手からのメールに添付された写真に写り込んだ父の姿を見るまでは……。
空に満月が昇りはじめていたあの日、「倒れた」という連絡を受けて病院に駆けつけた。
写真以上に老いて、やせ細った父がそこにいた。
「来てくれたのか、ありがとう」
私にはそう聞こえた、か細く吐き出されたその音は、父の最期の言葉となった。
延命のために必要な手術の同意も、必死にしてくれていた心臓マッサージを止めたのも、私の判断だった。
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遺品整理の時に、いつかの誕生日に送ったメッセージカードが大切にパウチされているのを見つけた。それが天邪鬼な父の答えなのだと受け止めた。
「パパ、私はあなたの娘に生まれて後悔してないよ、産んでくれてありがとう」