初体験のスタバで父は一番大きなサイズのフラペチーノを頼んだ

父は以前、かねてより行きたがっていたスタバを初体験した。
私が注文カウンターでメニューを見るよう薦めると、父はそれを無視して「バニラシェイクを2つ」と注文してしまった。
(え、ちょっと待った。バニラシェイクとは?それに私はカフェモカにしようと思ってたんだが?)
父の奇行は珍しくないが、不意打ちに言葉を失った。

一方の店員さんは慣れたもので、「似た商品がバニラクリームフラペチーノになります」と教えてくれる。父は満足そうに頷き、次にサイズを聞かれると、すぐさま「一番大きいやつで」と答える。店員のお姉さんは「トールサイズがおすすめですが、一番大きいのはベンティサイズになりますね」と快活に説明してくれて、父は再び「一番大きいやつで」と誇らしそうに答えた。

親切な店員さんが父をエスコートしてくれたので、お会計までの一連のやり取りは非常にスムーズなものだった。私が口を挟もうとする頃には、父はお釣りを手渡され、カウンター内では業務用ミキサーが激しく揺れ動いていた。

かくして私たち親子はベンティサイズのバニラクリームフラペチーノを持って席についた。
父は一口すすると、「マックより味が薄いのに高いなぁ」とぼやく。周りに人がいるのに野太い声でそんなこと言わないでくれ、とげんなりした気持ちになる。

優しさを純粋に嬉しくも感じるが、父の愛情表現はいつも空回りだ

飲みかけの大きなカップを持って、父を引きずるようにお洒落な店内を後にする。マックのシェイクとスタバのフラペチーノ、双方の異なる良さが、父には分からないのである(父は昔からマックのバニラシェイクをこよなく愛している)。

そして私が幼少期から人より胃腸が弱く、夏でもホットを頼む習慣があることなど、父には分からないのである。その日はお腹が冷えてギュウッと痛くなった。

父がスタバに行きたがったのは、私が「スタバが家の近くにあったらいいのに」と話題にあげたことがあるからだ。ならば娘を連れて行ってあげようと張り切る優しさが純粋に嬉しい。
だが、30年近く傍に居ながら私の胃腸事情を分かっていないように、父は根本的な部分において全く娘のことを理解していないのである。だから父の愛情表現はいつも空回りだ。

小学校時代、運動会では必ず親子競技があり、私と父は大玉転がしに参加したことがある。
アンカーだった私たち親子にタスキが渡された瞬間、父は暴走して大玉を全力で転がし始めた。父がひとりでゴールテープを切り、見事ブッチギリの1位を決めたとき、置き去りにされた私はまだゴール地点より半分の場所にいた。

結果、うちの父親は学校で名物(変人)おじさんと噂されるようになった。
「どうしてこんなことするの?みんなは親と楽しそうに大玉転がしてたじゃん」と憤慨する私に、父は誇らしげに「1番になれただろ?もっと喜べよ」と首をかしげたのだ。
コイツとは一生分かり合えないかもしれないと、初めて父に違和感を覚えた日である。たしか小学2年生だった。

花嫁の手紙を書くとき、心の声が異常に含まれたものになるだろう

父が良かれと思ってする愛情表現はいつも的外れだ。
自分がされて嬉しいことを、私にもしようとしてくれる。ただ、自分がされて嬉しいことを、他の人が同じように喜ぶとは限らない。
そんな当たり前のことを分かっていない52歳中年男性が私の父親である、という事実。ガッデム。

父のどうしようもない話を始めたらキリがないのだ。それでも父子家庭で、不器用なりに子供とコミュニケーションをとろうとしてくれることに、感謝している……多分。

近年、友人の結婚式にお呼ばれすることが珍しくない年齢になって、『花嫁の手紙』をいくつも聞く機会があった。どれも両親や家族に対する感謝の気持ちがこもった手紙で、第三者である私もつい涙ぐんでしまう。

そして我に立ち返って考えるのだ。もし私に『花嫁の手紙』を書く機会が訪れたら、一体どうするだろう。公の場で発表するものだから、きっと私はその他大勢の新婦さんに倣って、テンプレート通りの感謝の気持ちを綴ると思う。でも、そこに心が伴うだろうか?

私が抱えている父親への感謝の気持ち、それは(心の声)が異常に含まれたものになるだろう。

お父さん、私が生まれてからずっと(いつも気にかけてくれるのは嬉しいけど、あなたの愛情表現はかなりズレていて時々とても迷惑でした。もう少し周囲を意識した態度をとってほしいとか、子供のことを理解する姿勢を見せてほしかったとか、言いたいことは山ほどあるけど)育ててくれてありがとう……となりうる。

そんな私の(心の声)に気付かず、父は今日も大好きなマックシェイクをLサイズで買ってくる。忘れず私の分も。
(だからアイスドリンクはお腹が痛くなるって何度伝えたら理解してくれるのかな?)