私が育った家はとても貧乏でした。

母親が父親から最低限の生活費を受け取って、そのお金で母親が私と妹の生活必需品を買うという方式でしたが、父親からは本当に最低限の生活費しか渡されていなかったようで、いつも貧しい生活を強いられていました。

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流行のゲームや漫画や洋服等を買って貰えない、友達と遊びに行く為のお金が貰えない、社会人になるまで飛行機に乗った事がないというのはまだまだ序の口で、視力低下しても眼鏡を買って貰えない、歯医者や病院に殆ど連れて行って貰えない、生理用ナプキンは特売品の羽なしの小さい物しか買って貰えない、ブラジャーはサイズの合わない物を一方的に渡される等、大人になってからは絶対に虐待だと言えるような事でも当時は当たり前だと思っていました。

同じ社宅に住んでいた同級生達は長期休暇中に海外旅行をしている子も多かったので、多分父親も収入はそれなりにあったのかもしれませんが、私の家では父親が思い付きで車を買う等の自分勝手な行動ばかりするせいで常にお金がありませんでした。

「俺が稼いだ金だから自由だろ」という父親の言いなりになる母親にも正直とても嫌気がさしていました。

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私はこんな貧乏な家に生まれた事がとても嫌だったので、母親にも働くように頼みましたが、母親としては「外で働くのが嫌だから永久就職として好きでも無い男性と仕方なく結婚したのだから今更外で働くなんて絶対に嫌」と経済面で父親に依存していた母親は父親の言いなりになっていました。

一応は自分の意思で結婚した母親にとっては「永久就職」と割り切れるのかもしれませんが、私にとっては逃げ場が無くて辛かったです。
絶対に外で働くのは嫌だと言って父親にお金も意見も全て依存している母親も大嫌いでした。

辛い事は沢山ありましたが、特に辛かったのは父親の育った県に引っ越して、その県の中学校と高校に通った6年間です。

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父親は社宅から出て念願のマイホームを地元に買えて嬉しかったようですが、私には見知らぬ土地での地獄の6年間でした。
特に中学校は閉鎖的な環境だったので、私が少しだけ都会から引っ越してきたというだけで学年全員から虐めの対象になりました。

私はもう学校に行きたくないと言いましたが、父親は「お前が悪いから虐められるんだ。そんな事で学校を休んでいたら社会に出たら通用しない」と不登校になる事は絶対に許されませんでした。

母親も常に父親の味方だったので家にも学校にも居場所がなくて、気づけば中一の冬くらいから時々記憶が消えるようになりました。
大人になってから知りましたが、それは強いストレスを受け続けて逃げ場がない時に起きる「解離」という症状だそうです。

同じ環境でも妹と母は適応出来ているので確かに私は両親と妹が言う通りに駄目で我儘な人間だと思います。
だけど私はそこには耐える事が出来ませんでした。

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父親には娘は一人しかいないことになっているみたいですが、私にも「父親」は居ないと思っています。
母親や私や妹をたった少しの「俺が稼いだ金」で支配するだけの恐ろしい悪魔だからです。
「俺が稼いだ金」にお世話になっている以上文句も言えなければ逃げる事も容易ではありませんでした。

私は父親からの虐待とそれらを容認する母親からの虐待で命の危険があったという理由で、医療と警察と福祉の力を借りて両親と妹から逃げる事が出来ましたが、逆に言えばその段階にならなければ逃げる事が出来ないので、収入のない人でも問題のある家族から逃げる為の制度がもっと使いやすくなって欲しいと強く願います。
 

私は妹と母のような従順な性格ではないので、父親だけではなく母親も妹も親戚も皆が私を嫌っています。

私は家族達から捨てられましたが、私も血縁上の「家族」を捨てました。
身寄りがないと困る事も多いですが、それ以上に私の場合はメリットの方が多かったので、家族を捨てた事を全く後悔していません。

だけど本当は捨てなくてもいい家族が欲しかったです。
捨てられなくても良い優秀な娘になりたかったです。