久しぶりに、別れた元彼に会った。噂によると、後輩の女の子と婚約したらしい。

出会いは、私が新卒の時。
年上の彼は優しいお兄さんタイプで、仕事ができる憧れの人だった。

私は、彼のやり方をまね、行き詰まると彼にアドバイスを求め、彼と同じ本を読んで着々と知識をつけた。自分で言うのも何だが、かわいい後輩だったことだろう。
程なくして、二人きりで会うようになった。異動で勤務先が離れてからも関係は続き、むしろ気兼ねなく職場の愚痴や相談事を話すようになった。

元彼が婚約したらしい。私は先手を仕掛ける機会をうかがっていた

終わりはあっけなかった。

いつも通り誘いの連絡をしたら、「今ちょっと忙しくて」という返信。
仕事に理解のある女を気取り、馬鹿正直に連絡を控えた。そろそろ良かろうと、しばらくぶりにメッセージを送った時には、もう返事は来なかった。
彼が後輩の女の子と付き合っている、という噂を耳にしたのは、その直後のことだった。

仕事ができて面倒見もいい彼を尊敬していたし、自分もそうなりたいと思っていた。
けれど、私が寝る間も惜しんで仕事をして、彼と同じ役職についた時、彼の心はもうこっちを向いてはいなかった。

気付けば、立派なアラサー。出会った頃の彼の年齢を、追い越していた。

その彼が、先日ついに婚約したらしい。お相手の後輩とは、もう同棲しているという。
入籍までは周囲に秘密にするようだが、舐めてもらっては困る。既にこうして私の耳に入っているのだから。

人徳で周りに人が集まる彼とは違うタイプだけれど、私だって伊達に何年も仕事をしている訳ではない。年配のおじさまから、総務のお姉さま、新卒の女の子たちまで、情報網は各所にある。
ひっそりと元彼の婚約を知った私は、結婚の報告という一撃の前に、先手を仕掛ける機会をうかがっていた。

久々の彼との再会。自分史上最高の武装で、社内の健康診断に臨んだ

久々に再会することになったのは、ドラマチックでも何でもない、社内の健康診断だった。彼も同日に受診することを知り、会ったらクールに「婚約されたそうですね、おめでとうございます」と言おう、と心に決める。

そんなシーンで、ボロボロの冴えないアラサーだったら、さぞかし負け犬感満載だろう。自意識過剰な私は、健診前日、1時間かけて小顔マッサージをして、保湿クリームを塗り、着圧ソックスを履いて、普段より2時間も多く寝た。

自分史上最高の武装で臨む、健康診断。一体何と戦っているのか。

当日、健診会場には、彼と同じく他支店の社員が多く来ていた。
それなりに古株で異動経験もある私に、声を掛けてくれる人は多い。男女問わず「久しぶり!」「落ち着いたらまたご飯でも」「この前送ったプロジェクトの件ですが」などと、話しかけられた。

ところが、肝心の元彼には、なかなか出会えない。
ようやくすれ違ったのは、採血の順番待ちをしていた、肌寒い廊下だった。
「お疲れ様です」と挨拶し、軽く会釈をした私に、彼はお疲れの「お」も返さず、不自然なまでの早歩きで通り過ぎていった。

かつて「他の社員に会ったら挨拶を」と教えた張本人が、なんて裏切りだ。
昨日あんなに練習した、「婚約おめでとうございます」の言葉は、言えなかった。

可愛げのない女になりたくなかった。でも、今の自分は手放せない

指先が冷たい。
採血の看護師さんが、私の腕を縛ってこすったり、ペチペチ叩いたりするが、血が出てこない。思わず「すみません」と口にした。

美人の看護師さんは、「いえ!血管がちょっと細いだけですよ!痛い思いをさせてごめんなさい、もう少しですからね!」と幼児をなだめるように声をかけてくれた。涙がじわっと湧いてきそうになるのを、痛くない、痛くない、と自分に言い聞かせながら、乗り切った。

健診後、体調が悪いのではと心配してくれた人たちに、「検査着、ペラペラすぎますよー。換気もしてますし、体が冷えきっちゃいました」と偉そうに文句を言って、帰ってきた。そうでもしないと、崩れてしまいそうで。

結局、何も言えなかった。仕事ができる人なんて、目指さなきゃ良かった。検査着にケチをつけるような可愛げのない女になんて、なりたくなかった。

「期待を裏切る」という表現がある。
誰かの期待に応えられないことは、それだけで「裏切り」なのだろう。
それなら、先に裏切ったのは、彼の理想の謙虚な後輩であり続けられなかった、私かもしれない。

そんなことを考えながら、私は今の自分を手放すことができない。
人見知りを隠して挨拶し、大抵の事態には先手を打ち、人前で泣かなくなった自分を。

今の私には、それくらいしかないから。
これまで仕事と向き合ってきた自分への矜持だけは、裏切れない。