地元は生きづらかった。
女子の輪にも男子の輪にもなじめなかった記憶が強く残っている。
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その違和感は小学校中学年頃からあった。
顕著になったのは中学生からだろうか。
体育の授業で「ダンス」があった。特にグループ編成における条件はなかったが、"男女"というものが強く明確になる思春期において、必然的に”男女は別”という暗黙のルールができあがっていた。
男子は、全員で某ダンス&ボーカルグループの一曲をコピーし、女子はいくつかの小グループに分かれて各々創作ダンスにしたりアイドル曲をコピーしたりすることになった。グループ内で試行錯誤しながらダンスを作り上げることはもちろん楽しかった。休憩がてらに隣で踊るアイドルのダンスを真似してキャッキャすることもとても楽しかった。
だが、ダンスを嗜んでいたわたしにとって、男子の練習している姿が、大変魅力的に映った。だから、授業後も居残って真剣に練習している彼らに「練習だけでも混ぜてほしい」と懇願して、輪の中に入れてもらった。
はじめは、ただ嬉しくて、楽しかった。
だが、その後で気づいてしまった。
「誰もわたしのことを歓迎していない」
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歓迎されない理由は聞かずとも分かった。
いわゆる"男子の輪"にわたしは馴染むことができなかったのである。
だからといって女子とも仲良くできなかった。あんなに熱心に取り組んでいた部活動の同級生とも先輩とも後輩とも、どこにも馴染めなかった。わたしの代は同級生が偶数人だったはずなのに、なぜかわたし一人だけがいつも余っていた。
"男"も"女"もわからなかったし、わかりたくもなかったし、分けたくもなかった。
高校は、いわゆる女子校に入学したのだが、そこでも浮いていた。
友達と呼べるような人は一人もいなかった。結局今でも連絡を取り合って遊びに行くような人はいないから、誇張ではないと思う。
ただ、なんとなくSNSだけは繋がり続けている同級生たちが、「同級生サイコー!」や「うちら何年経っても仲良しすぎw」と言って定期的に集って楽し気にしているのを見ると、わたしは"女子の輪"には入れない、ハブれ者だったのだなと痛感する。
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世界が開けたのは大学進学を機に地元を離れてからだったのだ、と今改めて思う。
大学とは面白いところで、入学した場所や学部が同じなだけあって、大体の人が同じような学力、意欲、意志、目標などを持っていて、フィーリングが合う人がわんさかいた。
あの頃の学校とは違ってみんなある程度大人になっていることや、完全男女別だった部活動や女子校といったくくりとは違って何かにつけて男女混合だった。
"男"だけが、"女"だけが、群れている空間はほとんどなかった。それだけで生きやすかったのかもしれない。
わたしが感じていたギャップは"ジェンダー"だけではなかっただろう。しかし、"男女"の枠に特に振り回されていたのは地元にいたあの頃までで、"男女"の枠が穏やかになったように感じられたのは地元を離れた頃からだったという事実は、わたしの中に確かにある。
全国各地にみんなの地元があり、地元を離れた現在もジェンダーギャップに苦悩することが往々にしてあるのだから、そういうことはやはり全国にはびこっているのだろう。
結局は与えられたジェンダーを享受しながら、抗いながら、抱えながら生きていかなければならないのかもしれない。