私が生まれ育ってきた家は、おそらくよその家と比べるとあいさつが少ない家庭だったのではないかと思う。

「おやすみ」は確か言っていたと思うけれど、「おはよう」はほぼ言わなかった。「いただきます」「ごちそうさま」はどちらも一切言っていなかった。「ごめんなさい」「ありがとう」はおざなり気味。「いってきます」「ただいま」は年を重ねるとともに声が小さくなっていった。

あいさつがぞんざいなことを、親から注意されたことは一度もない。あいさつの少なさは、家族全員にとって日常の風景の一部だった。当たり前すぎて、誰も触れることすらしなかった。

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中学生だったか、高校生だったか。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉を知ったとき、そこから醸し出される真摯で誠実な雰囲気に静かに心打たれた。なんて素敵な言葉なんだろうと思った。同時に、「うちは礼儀の『れ』の字もないような気がする」とも思った。

当時私の家は、日に日に温度が下がっているような状態だった。冷たくて、どこからも陽が射してこない。そんなギスギスした空気のなかだと、穏やかなコミュニケーションなんて夢のまた夢。だからこそ、家族に対してあいさつをしようという気すら起きなかった。今でこそ、もっと思いやりを持って家族と接すればよかったと素直に思えるものの、当時は心を閉ざして距離を取るというやり方に逃げた。それは楽で手っ取り早いのかもしれないけれど、やり方としては褒められたものではなかった。

「親しき仲にも礼儀あり」に惹かれたのは、きっと、自分に一番欠けているものだったから。諦めきっていた「夢のまた夢」に憧れて、手を伸ばしてみたくなった。

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夢を抱え、そして過去の反省を踏まえ、今の私は「親しき仲にも礼儀あり」を本格的にポリシー化している。

結婚して2年、一緒に暮らし始めて3年になるパートナー。それまで怠っていたものを取り返すように、私は彼へのあいさつを欠かさない。私よりも起床時間が遅い彼を「おはよう、もう◯時だよ」と起こしに行き、夜な夜なPCデスクに詰める彼の背中に向かって「おやすみ、ほどほどのところで寝なね」と声をかける。分担制であらかじめ彼担当と決まっている家事ではあるけれど、皿洗いや洗濯物の片付け、ゴミ捨てをやってくれた後は必ず「ありがとね」とお礼を言う。悪いことしたなと思うことがあったら「ごめんね」と即座に謝る。「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」も必ず交わす。

「いただきます」も「ごちそうさま」も……いや、「ごちそうさま」は省略してしまっているな。嘘はいけない、正直に白状しよう。おしゃべりしながらご飯を食べ、食べ終えた後もおしゃべりを続け、おしゃべりが一段落したら「片付けよっか」とどちらからともなく腰を上げている。
でも、もしあいさつに点数をつけるのであれば、今の私なら90点くらいはもらえるんじゃないかと思っている。

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出来損ないだった私がここまで点数を伸ばせたのは、ひとえに彼のおかげだろう。彼は子どもの頃から、「あいさつだけはちゃんとしなさい」と言われ続けながら育ったらしい。彼自身もよく、「とりあえず大きい声であいさつしとけば大抵のことは何とかなるもんだよ」と口にする。何ともあっけらかんとした言葉だけれど、私はとても好きだ。

近所の人とすれ違えば「こんにちは」とはっきりあいさつをし、どのお店のレジでもお会計を終えた後は「ありがとうございます」とはっきり店員さんにお礼を言う彼。私はどちらもうにゃうにゃとした小声と会釈で済ませてしまうことが多かったから、礼儀正しい彼の姿を見て「私もこうならないといけない」と素直に反省した。

家の外だけではなく、もちろん家の中でも彼はあいさつを交わしてくれる。
「おはよう」で始まり、「おやすみ」で終わる1日。言葉にすると一見どうということのない光景のように思えるけれど、私にとってはあまりにも愛おしい。長い時間ずっと一緒にいると、さまざまな「当たり前」が日常にあふれてくるから時々忘れそうになるものの、ずっと憧れていた光景の中で自分が生きているのは、改めて考えるとやっぱり奇跡だと思う。

「ありがとう」や「ごめんね」をごまかさずにまっすぐ伝えてくれるのも、彼の好きなところだ。だからこそ私も、照れることも隠すこともなく「ありがとう」や「ごめんね」が言える。

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昔の私が今の私を見たらどう思うだろう。「ずいぶん丸くなったね」と驚かれるかもしれない。逆に今の私は、「何でそんなにツンとしてるの」と昔の私を叱ってやりたい。

あいさつは、人と人をつなぐ基本の『き』。
これからも当たり前に埋もれることなく、当たり前を大事にしたい。そしてどうせなら、100点満点に近づくために、「ごちそうさま」を言う癖もつけていきたい。