急にすべての選択を他人に委ねたくなるときがある。他人に決められたことをやることがあまりにも苦手なのに、ときにすべてを他人に決めてほしくなる。将来進むべき選択も、今日食べるご飯のことすらも決める気力の無さが突然爆発してしまう。

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そのときのイメージは、丸くうずくまってしまうのではなくて、突然地面に大の字になって手足をジタバタしたくなるような。ああ、わかりませんなにもかも。わたしはこのモードになってしまうと、感情のコントロールが難しい。

例えば散歩。わたしは最近家の周りを散歩することが習慣になっている。散歩をすることは、普段はリフレッシュになっている。からだを動かしたいという目的の他に、街にいる猫に会いたくて散歩をする。けれど猫はぜんぜん現われない。調子が悪いと猫にも会えないし3000歩くらい歩くともう家に帰りたくなってしまう。一方で帰ることすら疲れてしまって、立ち尽くしてしまう自分もいる。運んでください、わたしを、ここではないどこかでいいからさ。

暁にはすきなことも億劫になってしまう。わたしは毎日日記を書いている。日記というより散文。その日過ごして起ったことを書く日もあれば、ぱっとテーマを与えてエッセイを書くこともある。書きたいのに何を書きたいかがわからない。

義務でもないんだから書かなくてもいいのだろうけれど、こころとからだが一致していない感じのまま書いていると文章も散乱していく。正しさや「こうあるべき」という体裁に囚われてしまっている。こうなるときは、あんまり自分を見つめなおさないほうがいい合図。

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そういうときの対処法を最近見つけることができた。それは、とにかく人におすすめの音楽とか映画、本を聞きまくる。「いまハマっている音楽送ってください」「最近読んだお気に入りの本があったら教えてください」「おもしろいYouTube教えてよ~」「笑える映画ありますか」と、たくさんの人に連絡をいれまくる。みんな快く教えてくれるので気になったものはすぐに調べて取り入れる。

こうやって一旦自分から離れてみる。手にするもの、見るものを委ねてみる。正しさや義務に追い込まれて、自分のことがわからなくなってしまうとき、わかるようになるまで「待つ」ことや、とにかく「うごく」ことでどうにか乗り越えてきたけれど、「委ねる」ってのもなかなかよいものだなあ。

家に帰っても本当の居場所でないように感じる日、すきな本もラジオも頭に入ってこなくてどうにもこうにもできないとき、周りの人に自分なりに頼ることを覚えること。それはささやかなコミュニケーションである。

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からだも心もままならないとき、いつも救ってくれるのは周りの人たち。いつも優しくいてくれてありがとう。眠れない夜も朝に繋いでくれて、つくづくわたしは生かされているのだなと思う。しばらく委ねることに集中してみよう。みんなの優しさと一緒にここではないどこかに連れていってもらって、また自分の足で帰ってこられるまでは。