昨日、好きな人とお別れをした。と言っても、付き合っていたわけではないのだけれど。「好き」という2文字で表現するのはもったいないくらいに、わたしの中の大部分がその人でできていた。でも、彼はわたしの手が届かないほど遠くに行ってしまった。
◎ ◎
その人は、同じ職場の同じ課にいた男の子。ひょろっとした見た目に、黒い髪と白い肌を持っていた。笑うと目の横に皺ができるその人は、おもしろい話でいつもわたしを笑わせてくれた。
仕事ではずっとマスクをしていたので、たまに2人で食事をしたときに見える彼の顔がとても愛おしかった。ちょっとズボンの丈が短いことも、音痴なところもすべてが愛おしかった。
たまに仕事を抜け出して隣町まで遊びに行ったり、仕事終わりにご飯に行ったり。
2人きりでいるとき、彼はわたしだけを見てくれていた。だから2人の時間がとても好きで、この世界がずっと続けばいいとさえ思っていた。
振り返ってみて、間違いなく言えることは「仕事をしに行く」と言うよりも「彼と会いに行く」ために会社に行っていた。
◎ ◎
そんな彼と一緒に仕事をしているとき、わたしには密かな楽しみがあった。それは、彼の匂いを嗅ぐこと。文章にするととても気持ちが悪いけれど、彼の匂いはとても心地がよかった。柔軟剤とかシャンプーとか家の匂いとか体臭とか、たくさんの匂いが混ざった、何とも言えない香り。
彼の匂いを嗅ぐと、心が穏やかになって、なんだか気持ちだけが子どもの頃に戻ったような、そんな感覚になる。彼の匂いは不思議とわたしを「エモい」世界へと導いてくれた。
彼がわたしの横を通ると、いつもその匂いがした。会議室に入っただけで「あ、さっきまでここにあの人がいたんだな」と感じるくらいに、わたしはその人の匂いを記憶していた。
彼以外では決して嗅ぐことのできない、彼だけの匂い。
もう、一生あの匂いを嗅ぐこともできないんだな。
そして、この匂いをいつか忘れてしまうことがとても惜しい。
とても、とても寂しい。
そして、わたしはふと我に返る。わたしが恋をしていたのは「彼」ではなく「彼の匂い」だったのかもしれない。もちろん、彼の黒い髪も目の横の皺も、すべてが愛おしかった。
だけれど、彼と会えない以上に、彼の匂いがもう嗅げないということに、とてつもない切なさと虚しさを感じている自分がいる。それは、皮肉にも彼がわたしのもとを去ってから初めて気づいた。「なんか、ごめんね」と心の奥底で小さく彼に謝ってみる。
◎ ◎
「恋心」は人間以外にも抱くことがあるのか。それも目に見えない「匂い」というものにまでも。何だか不思議だね。そうか、わたしは彼の「匂い」に恋をしていたのか。人はみんな、知らず知らずに恋心を抱いているものなのかもしれない。
振り返ってみると、高校のときに好きだった男の子の「名前」にとても惹きつけられたのを覚えている。高校のときのわたしはクラスの出席名簿を眺めるのが好きだった。
クラス全員の名前を眺めながら「この人の親はどういう気持ちでこの名前をつけたのかな」と想像をすることに、とても奥深さを感じていたのだ。キラキラネームが流行っているこのご時世で「太」とかいう漢字を見ただけで、かなり萌えていた。わたしはそんな学生だったのだ。
◎ ◎
わたしが恋した相手は生身の人間だけでなく「名前」や「匂い」。決して触れることのできない。でもたしかに、そこにはある。彼との別れは、今までのわたしの人生を振り返るきっかけをくれた。そして、自分でも今まで気づくことのなかった、わたしの中の苦い「えぐみ」を知らせてくれた。
たまには彼のいるあの町へ、遊びに行こうかな。
そしたらさ、きっとあの匂いを探しちゃうんだろうね。
もしも、あの大都会でまた出逢えたら、そのときは胸を張って「運命」だって思ってもいいかな。
またあなたに出逢えたらきっと、わたしはこう言うよ。
「柔軟剤、何使っているの?」