3mmのシルバーが右手の薬指を結び、静かに沈黙していた。元彼とのペアリング。特別な輝きはないが心地よい重さが私を縛っていた。
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元彼と別れたのは冬が目前に迫る10月だ。よくいる普通のカップルだった。別れた理由もドラマチックなものではない。お互いのすれ違いが積み重なって、気づけば修復不可能になっていた。別れた後、私はすぐに彼がいない日常に馴染んだ。
いや、馴染んだ振りをしていた。彼と歩いた道、思い描いた未来、スマホに残された写真や動画、それらを見ないように目を背けていた。そうしなければ、自分を保てなかった。彼がいなくなった世界を一人で生きていかなければいけない。現実が鋭く目の奥を突いてきた。だから私は盲目になった。だけど涙は流さなかった。
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独りで四季の移り変わりを眺めた。彼との別れから時が過ぎても、私の時間は止まったままだった。私は盲目なまま、彼とお揃いのペアリングを毎日身に付ける。
私にとってこのリングは愛の証明であり覚悟だった。彼が私を愛していた、そして私も彼を愛していた、その証明。そして長い時を彼と過ごすことを約束する覚悟。いつか左手の薬指に新しい指輪がはめられるのを期待して、ペアリングは右手の薬指にはめていた。
指輪の素材にシルバーを選んだのは、毎日身につけても錆びないように、私たちの関係を悪いものから守るためにという思いを込めてだった。別れてからも、この指輪を身につけていれば自分が一時でも愛されていたという安心感、彼と生きていく覚悟を持っていた自分の強さを感じられた。
別れてから2年。写真は消せないし、指輪に縋ったままだが、いつの間にか元彼との思い出を笑って話せるようになった。友人達は私の指輪を見るたびに引き攣った、納得できない顔をするけど、指輪を身につけたままでも私は前へ進んでいるんだという実感があった。
友人達に言わせれば、普通のサングラスからカラーサングラスに変わった程度で依然として盲目であったのは間違いなかっただろう。でも私は調子に乗っていたのだ。
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数ヶ月後、失くした。大事に、大事にしてきた指輪を失くした。あの日は世田谷で友達と浴びるようにお酒を飲んで終電を逃し、始発までさらに酒を浴びた。気がつくと、記憶がない。そして指輪もない。胃が気持ち悪い。吐きそうだ。気持ち悪い。視界がぐるぐると回る。涙が滲む。必死に保ってきた自分の輪郭がぼやけて、不安定になる。わからない。こんなに悲しいのは、苦しいのはお酒のせいなの?それとも指輪を失くしたせいなの?彼と別れてからの2年間は、何の意味があったの?彼はどうして私を捨ててしまったの?
時刻は14時30分。知らない駅のトイレでやっと意識がはっきりしてきた私は泣いた。今までの2年間を辿って、彼と別れた時から堪えてきた涙と感情が溢れ出した。髪も、メイクもボロボロで顔色も最悪。気持ち悪くて立っていられないし、動きは亀のようにノロマ。自分の右手の薬指を見て、どうしたら良いのか絶望してしまう。必死に自分を掻き抱いて、混乱に耐えるしか無かった。
でも、わかることが一つ。多分もう指輪は手元に戻って来ないだろうということ。いや、もう一度あの指輪をはめるべきではないだろうという直感があった。なぜなら、指輪をすることで彼と別れた時に押さえ込んでいた痛みや悲しみは溢れ出してしまったから。今更止められない。現実を直視しなければいけないという絶望的な生存本能が働いていた。
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結果から言おう。この後、指輪は帰って来ず、三日間は涙と吐き気が止まらなかった。彼と過ごした日々と別れた日、別れてからの2年間を何度も、何度も頭の中で再生し、行き場のない悲しみや苦しみ、虚無感にボコボコに殴られた。
何度右手を見ても指輪はなくて、何にも縋れないという事実に、絶望を繰り返した。同時に、同じような思考を何度も繰り返していると自分がどんな感情を抱いているか解像度が増していった。単純だった。怖かったのだ。誰からも愛されていないということが。自分に愛されるような価値が無いという事実が。
体も心もすり減った三日間だが、同時に思考も磨かれた。思考回路がクリアになる。自分に価値がないと思うなら、価値を身につければいい。どん底の私がこれ以上落ちることもない。指輪一つ失くしたことで、私の何が変わったっていうのだ。ただのアクセサリーじゃないか。
今、指輪があっても、なくても過去は変わらない、変えられるのは未来だけだ。思いがけない奇跡的な思考の転換だった。やっと、ありのままの私を解放し始めた。私の目には光が差し込み、一段上へ階段を登った。
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たった3mmの厚さのシルバーリング。2年間私を支えてくれてありがとう。今も世田谷のどこかで静かに息を潜めているのでしょう。探しには行かないよ。他に探しに行きたいものがたくさんあるんだ。
きっと、指輪がなくても私は自分の輪郭を保てるようになることを知っているから。自分がちっぽけな物にこだわっていたと気づいたから。指輪がなくなっても、手が軽くなったようには感じない。私の積み重ねてきたものは変わらない。自分が誇らしくてたまらない。
私の瞳が輝き、薬指が心地よい風にさらされる。私は自由を手に入れていた。