「こちらこそ、これからも、よろしくお願いします」。深く頭を下げて、青いバラの花束とダイヤを受け取った。

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2024年、私たちは付き合って6年記念日を迎えた。記念日を祝うため、日本で最も標高が高い駅のほとりにある、長野のホテルに泊まった。標高が高く、空気が澄んでいるため、国内でも有数の星空観察の名スポットなのだ。

豪華なディナーを楽しんだ後、コートの上にベンチコートを重ねた重装備。雪の上に横になり、見上げた夜空は、手垢がついた表現にはなるが、零れ落ちんばかりの満点の星空であった。「綺麗……」と何度言葉を失っただろうか。見ても見ても見飽きることなく、1時間半が瞬く間に過ぎていった。ホテルの部屋に戻ると、プロポーズをされた。

星を見ることが好きだ。といっても星座に詳しいわけではない。東京生まれ育ちのシティガール(死語か?)であるため、日常的に綺麗な星空を眺めているわけでもない。「どうせ東京の星空なんて星見られないし」と夜空を見上げることもない。今回のように頻繁に星空観察に遠征するわけでもない。

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じゃあ、何を持って星を見ることが好きなのかというと、プラネタリウムによく行くのだ。6年間のデートで何度訪れただろう。地元や池袋だけでなく、千葉や名古屋に遠征したこともある。

彼が特にプラネタリウムが好きというわけでもないから、完璧に私の付き合いだ。そしてこの6年間の集大成が、このプロポーズであり、この星空だったのである。彼の思惑通り、私はYESと言った。そして一生忘れられない夜となった。

帰京してしばらく経って、仕事から帰宅する道で、ふと首の角度を上げてみた。いつもスマホをいじりながら歩いているため、頭の角度は限りなくマイナスである。

本当にふと、夜空を見上げてみた。「どうせ東京の星空なんて星見られないし」と思っていた夜空を、である。すると、見えたのだ。もちろんあの長野の夜ほどではない。しかし、鈍く光る星が、1個、2個、3個。よく目をこらせば、4個、5個と見えるではないか。

東京は空気が汚れているから、東京は明るすぎるから、星なんて見えない。そう思い込んでいた私にとって、それは衝撃的な事実であった。そして、思ったのだ。星を見たいなら、まず首の角度を上げて、空を見上げなければいけないのだと。自分がいる場所や条件に不平不満、文句をつける前に、まず空を見上げて星を探さなければいけないのだと。

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翻って夢の話である。かがみよかがみにエッセイを投稿すること、2年半。私は6月に30歳を迎え、卒業する。かがみよかがみの卒業論文として綴っているこのエッセイが、今回採用されれば101作目となる。過去100作で、様々な角度で様々なテーマで書いてきた。

その中でも双極性障害を患って味わった挫折については、何度もエッセイにしてきた。ジャーナリストを目指してがむしゃらに努力した勝ち組の高校時代。浪人期に発症した双極性障害Ⅰ型。4年間の引きこもりと挫折。そして「普通」の人生に戻ってきた現在。起伏の激しい100作は、そのまま私の人生の在り方そのものである。

幼い頃から文章を書くことが大好きで、ジャーナリストや新聞記者を夢としてきた私は、結局新聞社の入社試験を受けることすらせず、現在金融機関に勤めている。

新聞社にはねつけられ、自分の夢が「お前なんて無理だよ」とはじかれ、夢がついえて「ジャーナリストになれなかった自分」になるくらいなら、「ジャーナリストになれたかもしれない自分」という可能性のある自分を選んだのだ。それは保身であった。

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私はジャーナリストという星空を、見上げることすらしなかった。「障害者になったから」と自分がいる場所や条件に不満をもらし、自分を慰め言い訳し、首の角度は下を向いたままだった。それでは夢など叶うはずもない。星など見えるはずもない。夢を叶えたいなら、まず夢を見上げて、それに向かって一歩踏み出さなければいけないのだ。

ジャーナリストという夢から逃げた私は、かがみよかがみに出会い、書くことの楽しさと書くことへの情熱と再会した。それは「エッセイストになる」という新しい夢との邂逅でもあった。私はこらえ性もなく、コツコツ努力を積み上げることが苦手だ。

しかし101作という大台に達することができた。それは、「エッセイストになりたい」という夢を叶えるため、「エッセイストになるためには、じゃあまずエッセイを書かなければ」という当然の結論に至ったためである。

星が見たいなら、まず星空を見上げる。新聞記者になりたいなら、まず新聞社に入る。そしてエッセイストになりたいなら、まずエッセイを書き続ける。そんなシンプルなことに気づくのに、私は30年もかかった。

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もちろん、星空を見上げることすらきついときは、無理に星空を見なくてもよい。現状で精一杯なときは、夢なんて見なくてよい。星が好きな人でも、星空を見たくない日や気分だってあるだろう。そんなときは、気負わず横でも下でも見ていれば良いのである。

でも有名な著書を引用するのであれば、「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」。いつもそこに在り続ける星も、全く同じことである。私はこう思う。夢とはいわば北極星のようなものだと。その夢がどんなに重大なものでも、それがどんなに些細なものでも、その夢や目標がある限り、旅人が北極星を目安に目標地へ向かうように、迷うことがないのだと。それさえあれば迷わないもの、それが夢なのかもしれない。

私は一流のエッセイストという北極星を目指して、これからもエッセイコンテストといった媒体で挑戦する。「まよ」というネームをまたどこかで見かけたら、「あいつもなかなかしぶといな」と思い出してくださったら幸甚である。

さて、私のかがみよかがみでの挑戦もあと数百文字。「ファンです」と言ってくださった読者の皆様、一方的に切磋琢磨した気になっているかがみすとの皆様、支えてくれた家族、散々ネタにした婚約者、感想をくれた友人、そして何より編集部の皆様に、心より感謝申し上げる。ありがとうございました。

そして最後に一言。「こちらこそ、これからも、よろしくお願いします」。