思えば、大学時代は遊んでばかりいた。でも、遊ぶようにして学んでいた、と思う。

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大学の専攻は映画で、自分たちで映画を撮ることが実習だった。授業で短編を撮り続け、最初に長編を撮ったのは卒業制作でのことだった。

私が書いた物語は虐待された女子高生が2人で逃げるというような話で、私は同じ学科で勉強していたクラスメイトに女子高生役をやってもらった。2人とも私ととても仲がよかったので、快く引き受けてくれた。

しかし、撮影が進むにつれて、私とその2人との関係は悪化していった。私の作りたい物語はあまりに悲劇的で、ハードなシーンが多く、私のこだわりが強かったため、みんな疲弊していったのだ。そこで私が学んだのは、「人と人は、イメージをうまく共有できないもの。認識が違っても許すべき」ということだった。

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例えば演技について、私が「悲しい気持ちだけどあえて笑って欲しい」と言ったとする。それは普通に笑顔で演じて欲しいということではない。私の中には「悲しいけど笑っている」「悲しいからこそ笑っている」姿が明確にあり、それを伝えるために「笑顔なんだけど目が笑ってないようにして」と伝えたり、「少し遠くを見るイメージで」とか、わかるように伝えようと努力するのだが、向こうは「逆のことを同時にやれと言われてもできない」と言う。

さらに、「いつもよくわからない指示だから困る」と言われる。「じゃあ自由にやってみて」と言っても、「自由にやってもどうせもっとこうしてって言われるからやる意味がない」と言われる。これは私が監督として未熟だったからだ。どう伝えれば自分の表現したいことが伝わるのか、伝える手段があまりにも少なかった。未熟ながらもこだわりたかった私は、役者の気持ちが離れていくのを止められなかった。

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そして長文のメッセージがきて、「自分勝手」とか「1人で暴走してもいい映画にならない」というようなことを言われ、私は泣いた。あまりにも伝わらないことが多すぎた。その出来事があるまでの私は、自分の言ったことや思ったことはある程度相手に伝わるものだと思っていた。でもそれは、日常の会話や瑣末な指示など、ある程度聞き流していても平気な内容を人と交わし合っていたからで。映画を作るという、非常に細かいこだわりが行き来する場面では、人と人はこんなにも分かり合えないものなのか、と思った。

だから、自分も相手の立場に立って、何に困っているのか、客観的に見て自分の言っていることはわかりやすいか、を常に考えるようになった。そして何より、いろいろなことをなんとなく「伝わるだろう」と考えていたのが、決してそうではなく、伝わると期待すること自体が思い上がりだったのだと理解した。

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そういうことを学びながら、なんとか完成させた映画が映画祭で受賞し、今の私がいる。あの頃は未熟だった。今も未熟だ。でも、何かが伝わらなかったとき、仕方ないな、と思えるようになった。それだけでも、あの日々が無駄ではなかったと思える。

人と心を交わすことはとても難しい。ほとんど無理だと思った方がいい。けど、未熟なりに、諦めながら努力するということができるようになった。人を信じないとか、たったひとりで何かをできるようになろうとか、そういうことではない。ただ「わかってくれないのがおかしい」というわがままを手放すこと。それができるようになって、随分と生きることが楽になった。

これからも分かり合えないなりに、違いをもつ他者を愛して、関わっていきたいと思う。