「文学部は社会で何の役に立っているの?」

文学部生は、こういう悪意のない素朴な疑問をぶつけられることがある。私は日本文学科で源氏物語などを読んだが、就職の役に立つわけではない。「役に立つことばかりを学ぶのが学問ではない」という常套句でお茶を濁すのが精一杯だった。

◎          ◎ 

「役に立つことばかりを学ぶのが学問ではない? そういう中身のない返事をしているから、文学は不要なものと思われるのだ。文学部は何の役に立っているかという質問は、今の文学部の弱点を正確に突いている。文学を学ぶ人自身、自分がどうして学ぶのか、説明できていない」

ゼミの指導教授はそう言った。自分がどうして文学を学ぶのか。確かにそれが好きだからなのだが、あくまで個人的な趣味であり、大局的な使命感のようなものを持ったことはない。

「文学は実学だ。そのことを、一人ひとりが本を読むことのなかから証明しなさい」

教授はそうも言った。昨今、少子化と学生数の減少により、大学には高い競争力が求められている。就職率の低い学部は閉鎖しようという動きは顕著で、そうなれば文学部は真っ先にやり玉にあがってしまう。

◎          ◎ 

大学を卒業してずいぶん経ち、久しぶりに源氏物語を再読した。ヒロインの紫の上は、幼い頃に身寄りを亡くし、光源氏に引き取られ、彼好みの女性に育てられる。可憐で気立てがよく、おっとりした性格の紫の上は、光源氏が生涯で最も愛した女性だ。大学生の頃、私は紫の上が苦手だった。何が苦手といって、彼女のおっとりさ加減が嫌だったのだ。光源氏が浮気したり、よそで子どもを作ったりしているのに、どうしてこの人は呑気に気取っているのか。男子大学生には人気があったが、それは、男性にとって都合のいい女だからだと思った。

光源氏は愛人・明石の君とのあいだに娘をなすが、この娘は、光源氏と紫の上の養子として、紫の上に養育される。紫の上は、義理の娘を非常に可愛がり、「血のつながっていない私でもこんなに可愛いと思うのだから、実子と引き離された明石の君の淋しさはいかばかりだろう」と、明石の君への同情心から、彼女のことを許してしまう。

高校生に古文を教えていた時、この場面で、多くの生徒に首をかしげられた。「夫の浮気相手が生んだ子をいじめるのなら分かる。でも、それを可愛がるって、理屈に合わない」と。まして、紫の上は自分では子どもを産めなかった女性だ。「博愛精神」という言葉で説明したが、我ながら説得力がない。 

◎          ◎ 

私は結婚はしているが、子どもを持たない人生を生きることになった。私は他の子どもを見ても可愛いと思ったことは一度もない。「子どものいない女が、子どもが好きとか言ってもキレイごとだよね」と開き直っていた。私は一人っ子で甥や姪はいないのだが、夫には姪が2人いる。夫はとても可愛がるが、私は可愛いと思えない。

紫の上は、子どもを持てなかった。学生時代、気にも留めなかったこのことが、自分にも子どもがいないことで、急に気になりだした。文学は、読む年齢によって受け取り方が変わる。紫の上の、夫への愛情のかけ方は、切った張ったの激しさはなく、小動物や花を愛でるような、ほのぼのとした温かさにあふれている。義娘に対しても同じで、この世に生きとし生けるものは全て尊いという、生命賛歌のようだ。彼女がおっとりと心に余裕を持っていられるのは、彼女の強さであり、賢さである。

◎          ◎ 

私は今まで、夫が姪の話をするたび、鼻白んでいた。でも、紫の上ならこう言うだろう。「そんなに可愛い娘が生まれてきたのなら良かったじゃない、誰の産んだ子だって」と。了見の狭い私は、役に立たないはずの文学から、思わぬ処世術を授かった。