2024年の今。お米が品薄になっている。値段も上がっている。昨年の不作やインバウンド需要が影響しているらしい。対して、私の実家では田んぼが余っている。どれくらい余っているかというと、家族が3年食べていける量のお米が収穫できるくらいの広さ。そんな現実に歯車がうまく回らないもどかしさがある。
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私の実家は曽祖父の代から続くお米屋さん。お米を育てているだけの農家ではなく、米穀店という看板を持っていて卸もやっている。つまり、生産から販売までノンストップで営んでいる。だから贔屓にしてくれるお客さんも多い。個人のお客さんだけでなく飲食店や保育園にまで卸していた。……のは過去の話。
和歌山の小さな街にある実家。高齢化が進んで近隣には空き家が増えていった。当然お米を食べてくれていた人たちはいなくなった。お店を切り盛りしていた祖父も後を追うように他界し、昨年からは両親が本業の傍ら、週末に田んぼの面倒を見ている。人に売るくらいお米を作っていた我が家。たくさん田んぼを持っている。週末の両親の作業だけで手が行き届くはずもない。
両親は娘の私に手伝えと強要することはない。だから私的には「あらそうなのね。大変ね」と言えば済む話。ところがこの実家の状況が急に気になり始めた。それは私が食料問題に興味を持ち始めたから。
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私は飲食店に勤めていた。料理が好きで食に携わる仕事がしたいと願って就いた。でも毎日売れ残った食べ物が捨てられている景色が辛くなって職場を離れた。
現在はITに転職して食べ物とは無縁の仕事になったが、どうしても料理をまた仕事にしたい私。食べ物を捨てない仕組みはないのかと本を読み漁った。サーキュラーエコノミー、パーマカルチャー、コンポスト。気になるワードがあれば調べまくった。サステナブル、オーガニック、プラントベース。そんな名前が付くイベントにも参加しまくった。そして絶対どの本でも触れられるのが農業従事者の減少や耕作放棄地問題。まさに実家の状況だった。
イベントを通して知り合った方に「ご実家が農家だから食料問題に熱心なのね」とよく言われる。でも私は家族からそんな熱心な食育指導を受けたこともなく(なんなら両親は私に農地の相続を放棄させようとしている)勝手に自分が気になることを調べていたら勝手に実家の問題に繋がっていった。そんな状況が出来上がった。
田舎の実家は好きではなかった。だから便のいい東京に出てきて好き勝手に生きて今がある。食料問題について調べているのも自分の好き勝手の延長線。なのに結局実家の問題に紐づけている自分がいる。不思議だなと思った。
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食料問題の解決策としてロボットの導入があったり、環境に配慮した無農薬農法が最新の技術として持て囃されているように思う。でも私は想像がつく。実家にそんな高い機械を入れる余力はあるか。農薬や除草剤の力を借りないで行う農業はどれほど大変なことか。そう考えると現実的な視点が入って、一つニュースを見かけても様々な問いや疑問が付きまとう。専門家がせっかく提唱してくれた解決の糸口に対して素直に「これ私も実家で試してみたい!」と思えない。結局私はどうしたらいいのだろうか。知識を得ては動けず立ち止まるを繰り返している。
残念ながらまだ自分の納得のいく解決策は見つかっていない。お米を作る人手が足りないからと言って人を呼んだところで和歌山の僻地に何人集まるだろうか。そもそも稲作に専念したとして採算がとれるのだろうか。特にブランドもないお米を作ったところで全部売れるだろうか。私に何ができるだろう。
この瞬間にも苗が植えられていないただの空き地が存在している。でも絶対見つかるはずだ。実家の田んぼをうまく循環させる方法を求めて私は学ぶ足を止めない。