日本は「かわいい」文化だとよく語られているけれど、本当にそうなのかもしれない。身に纏っている服を「かわいい」と褒められると、その一言で魔法がかかったみたいに嬉しくて全身がウキウキしてくる。以前、私が書いた小説をかわいらしいと言ってくれた方がいて、文章にもかわいいという表現ができるのだと思いながら、なんだか嬉しかった。

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しかし、その「かわいい」も時には気持ちを揺るがす表現になる。たとえば「かわいい女性だ」とか「あの子かわいいよね」なんていうめ言葉があるけれど、それは外見のことなのか、性格のことなのだろうか。そうやって意識し始めると、「かわいい」の先を突き止めたくなるのだ。

第一印象ですべてが決まるみたいな、捉え方がある。その第一印象はもちろん「顔」であるのだけれど、その内面を知っていくうちに「かわいい」と思う感情が芽生えることだってあるはずだ。私自身は「外見」や「服装」を褒められることももちろん嬉しいけれど、それよりも先に内面に目を向けて「かわいい」を探してくれる方って素敵だなあと思う。

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もともと外見に自信がないから「私ってかわいい?」なんて自分から聞くことは恥ずかしいけれど、心を磨いて「かわいい」を追求することはいつだってできる。だからこそ、内側にある愛らしさに気づいてほしいとも考えたりするのだ。

逆に外見をパッと見て「かわいい」と褒めるのは誰にでもできるかもしれない。けれど、その人の内側にある真のかわいさを知って褒め尽くすことは、自分が心から大事だと思っている人にしかできないのだ。真のかわいさは誰にだって内側に眠っている。さらに性別問わず、「かわいい」と言われて嬉しい人と「かっこいい」と言われたほうが嬉しい人もいるわけで、その価値観に触れることはかなりデリケートなことでもある。

けれど「かわいい」という表現を自然に発することで、まだ知り合ったばかりで打ち解けてない人とも、グッと距離感を縮められるに違いないのだ。そう考えると、「かわいい」という言葉に依存してしまうくらい、「かわいい」に支えられながら自分は生きてきたのだなあと感じる瞬間もある。

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そして日々の生活のなかで、着てみたい服や鞄、靴を買うとき、やはり「かわいい」と思うか思わないかという基準で選んでいるのは、たしかである。これは私個人の意見になるけれど、ピンク=理想的なかわいいが詰まったものだからこそ、どうしてもピンクは「永遠のかわいい」を象徴していると断言できる。ほんとうに不思議なくらい、身の回りにあるものや身に着けるものは「かわいい」で溢れているからこそ、あらためて「かわいい」との距離感を考えさせられるのだ。

これまで私は「かわいい」と思えない・思わないものを身近に感じることはなく、ただひたすら自分のなかで思い描く「かわいい」を追い求めてきた。まるで自分の頑固さが「かわいいもの」に乗り移っているような感じだろうか。それは恐ろしいほど、「かわいい」に執着しながらも自分がかわいくなりたいという夢を託すような感覚なのだ。

もし自他ともに認める「かわいい」が生まれながらにして花開いていたとしたら、「かわいいもの」と出会う欲求はなかったと思う。まず「かわいい」のなかにある魅力を知ることもなかったはず。だから逆にもともと完璧に「特別かわいい人」に生まれていなくて良かったとも思える。それに気づいたと同時に、自分で自分を「かわいい」で溢れさせるには、いくらだって方法があることに微笑ましくなった。やはり自分にとって「かわいい」は、時には依存したり息抜きするように、その縛りから解放していったりと、いつでも夢見心地にさせてくれるものである。