文系を選んだことを後悔はしていない。だけど、世間の風潮か、個人的な偏見か、「理系の方が価値がある」と思ってしまうのはなぜだろう。

文系を選んだ自分は、「数学を諦めた人」だろうか。数ⅡBまでしかやっていない私たちは、数Ⅲをやった彼らに取って代わられる存在であり、その逆は不可能だ、と思ったりする。仕事においても、エンジニアとか、いわゆる理系が多そうな、専門知識が必要そうな業務に携わる人たちに対して過度に尊敬の念を抱いている。

私がやっている仕事だって、それなりに知識と経験が必要で、簡単に代えられる仕事ではないはずなのに。

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理系学者が発表するインパクトの大きな研究成果も、尊敬と自己卑下を生み出す。個人的に文系学者は政治経済や歴史分野を「よく知る人」というイメージがある。一方、理系分野の第一線で活躍する人は、「細胞作りました」「血液作りました」なんて、誰がどう見ても人の役に立つ進歩を「生み出す人」。

過去を見ているか未来を見ているか、そんな根本的な部分から相容れない気すらしてくる。

この議論でよく目にするのは、理系の方が平均年収が高いから価値があるという主張だ。正しさとか、データとか証拠とか、ちょっと小賢しい人間になったら、何も知らなかった頃の私の選択を否定されているような気がした。

資本主義を土台に生きるなら、そりゃ年収が高い方が正解に見える。正解は強い。大多数の人間が価値を感じる扇動力がある言葉だと思う。ただ、この主張にはコンプレックスを刺激されない。正解はつまらないということだけは知っているから。

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それなら、何が私に自己卑下をさせるのだろう。思い当たるもの全てをあたってみたけれど、根源にある理由は分からない。

ひと呼吸おいて、文理選択をした教室に思いを馳せる。あの教室に戻れるとしたら、文理選択をやり直すだろうか。理系に丸をつけるだろうか。

そんなの答えは簡単だ。高校1年のあの頃、進路希望調査シートを前に、シャーペンはするすると動いた。

英語が好きで、世界を広げたくて、迷わず文系を選んだ。小学生の頃から異文化に憧れて、「ここではないどこか」に夢を見ていた。世界にはまだ見ぬ景色がある、それを見るまでは死ねないと今も思っている。

私が生きたい人生がこっちだった。それだけだ。一般的にとか、人の役に立つとか、収入が高いとか、そういう軸で専攻を決めたくはなかった。偏見も自己卑下も本筋ではない。私が生きたい人生がこちらの道だと思っただけ。何本もの矢が飛んでこようとも、それだけ抱きしめていたらいいのに、どうして忘れてしまうんだろう。

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高校1年生の私と今の私は、価値観も判断軸もずいぶん離れてきているのだと思う。

もしかすると、現在の私が抱える「なんで文系選んだの?」という質問に、高校生の私は説明できなくて困っているのかもしれない。英語が好きとかワクワクしたからとか、そんなことでは小賢しくなった私が納得してくれなくて、泣いているのかもしれない。

目の前にいた、1番に抱きしめるべき人をないがしろにしてきたみたいだ。背中をさすって、話を聞こう。泣きながらでも、心を閉ざされているかもしれないけれど、私はあなたの話を聞きたい。心の声を聞きたい。

私とあなたが横並びになって初めて、見えてくる未来があると思うから。