私が学生と呼ばれる身分から卒業して数年の月日が経った。来る日も来る日も会社と家を往復する毎日。楽しかった学生時代は遠く、いつの間にかどこにでもいる普通の社会人となっていた。

そんなある日、会社で企画の話をしていた時のことである。ふと、同期が「本居宣長」の話題を出した。何でもないただの雑談の中で出たその懐かしいワードに、私はハッとさせられた気がした。

学生時代、あんなに必死に覚えたはずの彼の功績を咄嗟に思い出せなかったのだ。その時、唐突に言いようのない不安を覚えた。私の中で積み上げて来た“何か”が徐々に消えていることに気付いたのだ。そう思うと同時に、失ったものを取り戻すため初めて「勉強したい」と強く思ったのだった。

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手始めに社会人でも活用場面の多い英語を一から学ぼうと志し、初心者用の参考書を購入。毎日就寝前に10~20分程参考書を読む日々。内容も簡単だったこともあり、容易に続けられると思った。

……が、それがなかなか難しい。仕事は勿論のこと、溜まった洗濯物を回して干して片付けて、弁当用の作り置きを作り、当然洗い物や掃除機掛けも行う。生きるだけで忙し過ぎる毎日の中、“勉強時間”を法的に与えられていない我々社会人が勉強するには、己の力で時間を捻出する他ない。

何も考えず、ただ与えられる学びを享受していた数年前のあの頃が懐かしい……。好きなことも嫌いなことも等しく学んでいたあの頃。それが煩わしくて嫌になる日もあったが、今じゃたった数分勉強することも困難で……。

“勉強”がいかに贅沢なものであったかを大人になってようやく気付くことが出来たのだった。そして同時に学ぶ喜びを感じた。それを皮切りに必要か否かという視点ではなく、興味のある事柄も積極的に学ぼうと目下取り組んでいる最中である。

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最近、勉強に関して嬉しい出来事があった。私には高校卒業後、それぞれの道へ進学、就職した今も連絡を取り合い、年に2、3回旅行に出かける友人がいる。そんな友人と先月、互いの脱繫忙期を祝して久方ぶりの旅行に行った時のことである。

たまたま訪れた教会の展示物の中に「内村鑑三」の名前を見つけ、思わず感動してしまった。
私はこの人のことを忘れてない!

その瞬間、「本居宣長」の時に感じた喪失感が埋まった気がした。失った何かを取り戻せた気がしたのだ。感動そのままに友人にそのことを報告。しかし日本史選択だったはずの友人は、残念ながら彼のことを忘れてしまっていた。悔しがる彼女に自分の体験を交え、いかに勉強が贅沢なものであったかを吐露すると、友人も私と同様の虚しさを感じていたことが発覚。

その虚しさが学びへの憧憬であったことを自覚した彼女もまた、時間を見つけては勉強を再開したらしい。

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「何かを始めるのに遅いも早いも関係ない」とよく耳にするが、こと勉強においてはその通りだと強く信じている。

私達はまだ終わってないし、失うばかりでもない。そのことを確信し、より一層学びを得たいと、多忙な日々の中で今日も勉強に励んでいる。