この世界に、私のことをかわいいと思ってくれていて直接言ってもくれる存在は、実の両親だけだった。自分では、自分の顔があまり好きなタイプじゃなくて、「もっとかわいく産んでくれたらよかったのに」と母に恨み言を言っては、「かわいいで?」と言わせていた。

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幼稚園の頃から、自分の容姿に自信がなかった。鏡やショーウィンドウに突然映る自分の顔が、あまりにも想像していたものとかけ離れていて落ち込むようなこともよくあったし、こんな顔で笑うのか、こんな顔でこんな調子に乗ったことを言っていたのか、と自己嫌悪することも少なくなかった。

友達の顔なら見慣れてくるし、親密度が上がれば上がるほど、愛嬌が可愛く見えてくる。そう考えてみると、意外と自分は自分の顔を1日の内にそこまで長い時間凝視する時間がない。だからただ単に、自分の顔に見慣れていなかったんだな、と最近になって気がついた。

アラサーで就職して、美容に課金できるようになって、自分の顔とちゃんと向き合う時間が増えると、段々と自分の顔を見慣れるようになってきた。ようやく意外と私って、そんなにブサイクじゃなかったんじゃないのか、と思い始めた。

友人に「最近あんまり自分のことブサイクって思わなくなってきてん!」と無邪気に報告すると、「前からそんなブサイクとかじゃなかったよ?」と不思議そうに返ってくる。

私はどうやらブサイクじゃなかったらしいし、昔は見ることさえ嫌だった自分の写真も、ちゃんと見てみれば、ブサイクではない幼い私はそこには写っていた。

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去年の一瞬、私が「可愛いでしょ?」と尋ねると、「可愛らしいなあ」と言ってくれる男の人がいた。その人は残念ながら奥さんがいたから、その一瞬の膨らみもしなかった恋の蕾は、蕾のまま枯れてしまった。

「やっぱり、私が可愛過ぎたんかなあ」と、近しい存在の人に思い出話の最後に、冗談のようにそう言うと、「そうやろうね」と真面目な顔で返されてしまった。その人とはもう連絡を気軽に取れなくなって、思い出すたびに少しだけ悲しくなる。

けれど人生で初めて、目の前に私のことを可愛くてたまらないと思っている顔がある体験は、とても心地よくて素敵だった。彼の気持ちがどんなものだったのかは、最後までわからなかった。彼の気持ちは彼自身も外に出してはいけないことで、それでも最初にケンカのようなことをしている時に、やや混乱しながら私を「可愛らしい」と言ってしまった彼の言葉はずっと嬉しくて、それだけでもいい経験をさせてもらったなあと思う。

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来月には30歳になってしまうのに、まだ彼氏がいたことがないし、結局処女のまま。同世代は次々と結婚と出産を経験し始めているのに、私はまだスタート地点にも立たずにいる。

だからと言って、それは不正解なわけでもないことを、私は知っている。自分磨きして、好きな勉強をして、休日を趣味のことに費やして、独身で気ままな友人や私を大切に思ってくれている人たちと一緒の時間を過ごす。

休みの前日の夜中、急に映画が見たくなって見始めたミュージカル映画があまりにも素敵で、そんな時間が幸せで、私はこれでいいんだと再確認させられる。私は私で楽しく生きてるんだから、何が悪いの?こんなに可愛い私を放っておく世の中の男性は、いったい何をしているの?ほらほら、ここにこんなに可愛い私が、ずっとフリーで楽しんでるんですよ。一緒に楽しい人生を、隣で歩いてみませんか?

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仕事終わりに、車窓から見える夕焼けがとても綺麗だった時。ご飯が、あまりにも美味しかった時。見ていた映画が、たまらなく幸せな気持ちになる時。それを共有できる人がと隣にいれば、今よりもっと人生が豊かになるんだろうか。

今でも十分幸せなのに、これ以上求めていいものなのだろうか。満たされた生活の中で、自由があまりにも寂しくなる時がある。飲み会終わりに終電を逃して1人でタクシーで帰宅してる時、「遅すぎるんじゃないの」とちょっと怒ったように迎えにきてくれるような人が、私にもいたら、そのちょっとだけ窮屈だけど愛おしい束縛が私には羨ましくて。

多くは望まないけれど、私が大好きになった人が、私を可愛いと思ってくれる人生に憧れてやまない。