あと3ミリ、この3ミリの壁を越えたら、あなたにとっての「良き母」になれるの?
7月某日、とある産院の病室にて。
十月十日の妊娠期間、胎内で立派に育って出て来てくれた我が子を抱き、私は途方に暮れていた。
娘が、ミルクを飲まないのだ。
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私と娘が入院している産院では、授乳は昼夜問わず3時間毎。
出産翌日の朝10時からスタートし、19時の回が最後。その翌日の母児同室開始から退院までは、深夜でも起きて必ず授乳しなければならない。
赤ん坊の胃はまだ小さく、大人のように内容物を溜めてはおけない。そのための3時間おきの授乳で、赤ちゃんの体重を増やして健康に退院するためには、必要なプロセスだ。
しかし、私の子は、3時間おきには母乳もミルクも飲んでくれない。
胸元をはだけさせ、我が子の口を乳房にあてがう。隣の椅子で授乳される子は、ものすごい勢いで乳首に喰らいつくのに、腕の中の宝物は、うっとりと目を閉じて私の乳首を口内で転がすばかり。
……赤ちゃんって、お腹を空かせて泣いてばかりで、なかなか寝なくて困る生き物じゃなかったっけ?
そう自問するほど、安心し切った顔で眠る娘。
母乳のあとは、規定量のミルクを飲ませなければならないのに。どうして飲んでくれないのだろう。
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母児同室が始まってからは、ますます孤独感が増した。
生後24時間経っていないから、日中だからまだ飲めないのよ、という看護師のなぐさめの言葉と裏腹に、生後48時間が経っても、深夜の授乳時間でも、かわいい我が子は眠ってしまう。
ママの腕の中は安心するのよとか、乳房そのものは良い形をしているからもうすぐ母乳も出るよとか、どんなに励ましてもらっても、娘の乳飲量は1日の規定量に全く届かない。このまま体重が増えなかったらどうしよう、どうして起きて飲んでくれないんだろうと、ただひたすらに焦りがつのる。
本来なら病室で1対1でやるべきところ、授乳室に駆け込み、看護師に教えを乞う。
首の角度を大人が水を飲むときのように少し上向きに、舌の上に乳首が乗るように、足の裏や脇をくすぐって起こして、寝ているままでも吸啜反応さえ引き起こせれば飲ませられる、等々。試せるものはなんでも試して、少しでも飲んでくれるよう祈りながら、乳首を口元に運ぶ。
努力は徐々に身を結び、本当に少しずつだが、母乳もミルクも飲んでくれるようになった。それでも、哺乳瓶の底に残るあと3ミリ、その3ミリを完飲させることができない。
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入院3日目、深夜2時。
まだ量の出ない母乳を少しだけ飲ませ、哺乳瓶にミルクを作る。
日付が変わって、今日の規定量は50ml。日中量を飲まなかったせいか、今夜は乳首への吸い付きが良い。
明後日の昼前には退院する。今日こそは、なんとか全部飲んでほしい。
祈りながら、哺乳瓶を咥えさせる。最初こそ勢いよく吸い付くものの、5分も保たずにまぶたが閉じる。哺乳瓶を優しく左右に振り、吸わせる。止まる。乳首を口から離し、抱き上げてげっぷをさせる。また咥えさせ、乳首で舌を刺激して吸わせる。また止まる……。
本当は、こんなに無理をさせて飲ませたくない。命をかけて産道を通り、まだ疲れが残っているだろう我が子を、ゆっくりと寝かせてあげたい。でも、体重をちゃんと増やしてあげたい。
あと3ミリだから、もう少しだけ頑張って飲んでほしい。きっと夜が明けたらもっと飲まなくなってしまうから。お願い、飲んで、飲んで……。
どこかの病室から、赤ん坊の泣き声が聞こえる。産院の夜は、我が子と悩みを胸に抱いた母親たちの孤独と共に更けていく。
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そうして迎えた退院の日。
結局私は、あの3ミリの壁を越えることはできなかった。今は、娘が泣いたタイミングで、たくさん出るようになった母乳を好きなだけ飲ませて、飲めそうな量のミルクだけを作って与えている。
今のところ、健康状態に問題はなさそう。でも、1週間後の体重チェックで、もっと体重を増やすよう言われたら、また考えようと思う。
きっと、あの3ミリを越える他にも、「新米親子」としての関係を築く方法はあると思うから。