駅前を通る時、タクシー乗り場の運転手さんを見回す。名も知らぬ一人の運転手さんを探しているが、数年前に見かけたきりだ。「あの時」のお礼を言えないままなのが、今も心残りでならない。
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2007年から、この地の市民になった。2005年に夫が単身赴任で移住しており、私もそれまでに何度か訪れていたが、まず第一印象として、辺鄙な駅舎に絶句してしまった。うらぶれた売店兼食事処、お粗末な待合スペースと申し訳程度のパンフレット置き場、マイナーな飲料の自販機など、全てが野暮ったい片田舎の風情だった。
当初はあからさまに「私は生まれも育ちも杉並よ」と息巻いて、「こんな田舎なんて、ふん!」と鼻白んでいたが、そうした無遠慮な悪態には訳があった。否応なく、無理やり駆けつける羽目になった事情が恨めしかったのだ。夫の不在をいいことに、娘と2人のお気楽生活を謳歌していたというのに。
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17年前の深夜、単身赴任3年目の夫が交通事故と一報を受け、取るものもとりあえずこの地に来た。夫はその前年からうつ病を患っており、一進一退を繰り返している最中の災難だった。
見知らぬ土地で、先の見えない病気の夫との生活が不安で、約1年間は1人で泣いてばかりいた。
他愛ないテレビ番組でぼろぼろと涙し、掃除機を掛けながら声を放って泣き、寝床に入れば涙がとめどなく頬を伝った。離れて暮らす娘との電話は、泣いているのを悟られぬようカラ元気で応じた。涙のせいでいつも瞼が腫れあがっていたが、誰にも胸中を明かせなかった。何度か、夫が服用する抗うつ剤と睡眠剤を乱用したこともあった。「明日が来なければいい」「目覚めなければいい」との逃避願望に取りつかれていた。
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子供の頃から、他人なんか何の役にも立たないと諦めていた。悩み事は自分で解決するほかない、親でさえ心の支えになってはくれない。辛さも心細さも針で刺されるような胃の痛みも、自分の中に溜め込み、どうにか押さえつけて消化し、じっと痛みが去るまで我慢した。それが当たり前の処世術だったので、助けを求めて逃げ出すことも、弱音を吐いて投げ出すことも選択肢にはなかった。ただひたすら、時の流れの中で日々をやり過ごしていた。
そんなある日、病院や役所などを回る際にタクシーを利用した。運転手さんは落ち着いた物腰の中年女性で、いきさつをぼやいて嘆息し、すすり上げる私を穏やかに諭してくれた。
「夫婦も離れてるとお互い無関心になったり、優しくなくなったりするでしょう。そろそろ考え直す時期が来たんだなって、きっかけだと思えばいいのよ。ちょっとの思いやりで気持ちは通じるんだから」
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単身赴任で数年間のブランクがあったその頃、私たち夫婦は不安定な状態にあった。交通事故もうつ病も、元を正せばその延長線上にあるということは、私自身うすうす感じていたことだった。そうした内情を見透かされたような、的確な助言に甚く恥じ入り感激した。降車の際、思わず「お釣りはいりません」と言うと、「これからが大変なのよ」とやんわり窘めてくれた。不安と不満で一杯だった心に、彼女の言葉はさざ波を起こした。知らない土地でたまたま乗ったタクシーの運転手さんが、さらりと示してくれた道しるべは、私の“きっかけ”となった。
私がまずやるべきなのは、嘆くことでも泣くことでもない。諦めず、へこたれず、泣き顔ではなく笑顔で夫を見守ることだと、おぼろげに納得した。胸中で軽く毒づきながらも、苦みを噛みつぶしながらも、確と腹を括った。
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私には、日常とは別の「打ち込むべき何か」が必要だった。「何か」を探し続けて、最初に挑戦したのは介護ヘルパーの資格だった。なんとか取得はできたものの、どうしてもその世界に踏み出す勇気が出ない。悶々とする中で出会ったのが点字だった。週に1度、10人の仲間と共に勉強するひと時は充実していた。新しい知識の吸収に費やす時間と集中力は、くじけそうな心のつっかえ棒になった。
約1年半の講習の後、2012年から点訳ボランティア活動に従事している。国内外の書籍を、工夫と知恵の総動員で点字書に仕上げていく。継続の原動力は、「微力ながら社会に貢献できる」という満足感かもしれない。また、ここで手掛ける書籍のおかげで、読書の幅と厚みが格段に増した。自分では選ばない政治や経済、医学関係の論説文、古典、歴史書など、扱う分野が多岐に渡っているせいだ。それらが与えてくれる新鮮な感動や衝撃、感銘や驚愕は財産だ。
私がボランティアを始めた頃から、夫のうつ病は快方に向かい、徐々に心身の健康を取り戻した。私自身、点字に心を救われた。今しみじみとそう思う。
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駅前を通る時、タクシー乗り場であの運転手さんを探す。きっとどこかでまた、私みたいなお客を諭しているかもしれない。そう思うだけで気持ちが和む。