今では読書は得意な方なので、「子供の頃から本が好きだったんでしょう?」と訊かれることがあるが、そのたび、首をかしげてしまう。果たして本当にそうだっただろうか、と。

今は、「本を全く読まなくても東大に入れたけど、それが何か?」というような風潮もあって、本、ことに小説を読むことを教養と結びつける人は少なく、それは個人の嗜好で読まれることが多いと思うのだが、私が子供の頃は、今よりずっと、本を読むことは絶対的に善だと信じられていた。

本を読まないと賢くなれない、本を読まないと心が豊かにならない、という強迫観念めいたもの。朝の読書タイムがあったり、読書マラソンと称して、夏休みのあいだに何冊読んだかを競うカードがあったことがその証拠だろう。

つまり、私は、本を自発的に読んでいたかというと、そうも言い切れず、読まなければならないものとして、半ば義務感から読んでいたというのに近い。

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私は高校生になるまで、心から面白いと思える本に出会えなかった。

先生や司書は、おすすめの本を紹介してくれる。本屋に行けばベストセラーが平積みしてある。友だちから、「泣ける」と話題の余命ものや純愛小説を貸してもらう。けれど、そのどれもがピンとこない。

それらはあまりに正しいことが書かれていてお説教じみていたり、お涙頂戴を狙いすぎたりしていてかえって白けてしまうばかりだった。先生や司書のような、その道のプロがお墨付きを与えていたり、世間で流行っているものの良さが分からない私はおかしいのではないだろうか、と悩んだ。

こういう経験が何度か重なると、人は「自分は本が好きではない、読書が苦手だ」となってしまうのだと思う。本との不幸な出会い方といえよう。

そんなあるとき、たまたま図書館で一冊の本を手にした。なぜその本を選んだのか、理由は分からない。ただ、本が私を呼んでいたとしか言いようがない。直感的に吸い寄せられるようにして手に取った。

私はその本を読んだ時、初めて、「これは私のための本だ」と思うことができた。片隅で忘れられたようにひっそりとたたずんでいたその本は、私に見つけられるためにここにあったのだ、と。

こういう本に一冊出会えば、あとは簡単だ。同じ著者の本を網羅的に読んでもいいし、その著者が影響を受けた著者の本を読めば、はずれはない。私は偶然、そういう一冊に出会えたけれど、それに出会えず、読まず嫌いのままの人も多いのだと思う。

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私は今、読書が得意だけど、人に本を勧めない。

私は子どもの時、茄子が苦手で、給食の麻婆茄子を、冷めたら余計マズいから早く食べるように急かされ、無理に口に詰め込んで、戻してしまい、茄子が食べられなくなった。しかし、大人になり、焼き茄子を食べて、こんなにたっぷり水分を抱え持つことができる茄子はなんて美味しいのだろう、なぜ今までこの美味しさが分からなかったのだろう、と思ったことがある。

子どもの頃、読書を無理強いされて、それがトラウマになることもあると思うし、読書マラソンのように、冊数を競うのも違う気がする。

私はおすすめの本を訊かれても答えない。人それぞれ違っていて勧めようがないし、第一、自分が本当に面白いと思った本は、誰にも教えたくなく、独り占めしておきたい。

それに、人に本を勧めようとすると、自分が賢くてセンスのいい人間だと思われたくて、わざとマイナーな本を選んでしまいそうでもある。だから私は、誰かがおすすめしている本も同様に眉唾物だと思っている。

本を読んでいる人に、どんな本を読んでいるの?と平気で訊く人の気もしれない。それは裸を見られるより恥ずかしいことで、読書とはセックスくらい個人的な営みだと思う。